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飯舘村、「メディアとの闘い」

「メディアとの闘いを今でもやっていますから」

 以前聞いた、飯舘村の菅野村長の怒りを今も覚えている。「東京の線量が下がったときは毎日放送されたが、飯館が下がっても放送されない。どうしようもない地域として放送されてきた」番組はその怒りにどう応えただろうか。『キ・ボ・ウ〜福島県飯舘村二年の記録〜』(東北放送)を見ながらそう考えた。

 福島第一原発の30キロ圏からも遠いはずの飯舘村が、原発方向から吹く南東の風と降りしきる雪によって汚染され、全村避難となるところから番組は始まる。村民6000人は福島市などの仮設住宅で暮らしが始まり、村役場も市の庁舎に間借りすることになった。

 当時、放射能に関する情報に乏しく、原発周辺から避難してきた人々の対応に追われていた飯舘村では、全村避難の決断に一月がかかり、さらに避難完了にもう一月要した。この遅れに対し、村長の決断は殺人行為であると村民から非難を受ける。

 状況は楽観視できない。長年村づくりに携わってきた菅野村長と盟友長谷川さんの帰村をめぐる対立は、原発事故が故郷を奪うだけでなく、人間関係をも大きくねじ曲げる事実を伝える。全村避難が決まった翌日103歳のおじいさんがよそ行きの服を着て亡くなってしまう。待ち望んだ除染の説明についても、場所によって「除染可能」「除染検討」「除染困難」と分類されてしまうと知り、住民は納得がいかない。

 ただ番組はあくまでほのぼのとしたトーンとナレーションで「希望」に焦点を合わせる。それを可能にしているのが、2年という歳月に及ぶ多面的な取材だ。一時帰宅は原則日帰り、という規則を自ら破る村長の照れ笑いは人柄を捉え、視聴者をほっとさせる。避難先で再び育て始めた村の特産品のじゃがいも「イータテベイク」を希望の象徴としたのも好感を持てる。新しい牧場での子牛の出産ラッシュや、伝統の例祭も村民の確かな営みだ。そして何より地元企業による放射線を可視化できるガンマカメラの開発は目を引いた。除染作業を10分の1にできるというこのカメラの生産は村の除染と雇用の問題を一挙に解決する可能性を秘めている。希望は確かにある。結果的に番組は、冒頭の村長の怒りを汲み取ったかたちになったと言えるかもしれない。

 しかし一方で番組は原発事故をなんとなく天から降ってきた災いのように捉えているきらいがある。津波ではない。原発である。私たちが文明の恩恵を被るために作り上げた英知が、めぐりめぐって飯舘村の悲劇に続いていることを村の人たちはどう思っているのか。村民の心の底にもっと大きな怒りが潜んでいて、希望とはその巨大な怒りと対を成しているのではないか。対岸の火事ではなく、「私たち」に跳ね返ってくるものとして原発事故を捉えなければ、「彼ら」の希望もまた遠く縁のないものになってしまうだろう。

 番組の最後、村のパトロールを終えた長谷川さんら「仲良しトリオ」に、番組は「今の希望は何ですか?」と尋ねる。「将来のビジョンが欲しい、ウソでも何でもいいから」「ウソでは困る」「いままでウソばっかだったもの」。はじける乾いた笑いの奥にあるものを、私は知りたいと思った。


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