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白球を追いかけた球児たちの3.11

 「13万6102円、異常なし!」。母校を卒業して自衛隊に入隊し、手渡しで初任給をもらった木原航平さんは封筒の中身を確かめ、大きな声で上官に伝えた。震災から2年の時を経て、バットを握っていた手は今、訓練用の銃を手にしている。

復興のさなかに甲子園初出場を果たした宮城県石巻工業高校の野球部員、その卒業後を追ったドキュメンタリー「あの日の誓いを忘れない」の一場面である。番組は、震災で3959人が犠牲になった石巻市で、海水に浸かったグラウンドのヘドロをかき出し練習を重ねた球児たちが甲子園に出場し、卒業して今年の春にそれぞれの道に歩みだすところまでを追いかける。

 甲子園では5番でライトを守っていた木原さんは、震災後に活躍していた自衛隊員たちを眺めながら、自分も助けられる側から助ける側になりたいと、次第に思いを固めた。[h1]

 被災地の球児が甲子園で活躍する。戦後、甲子園という舞台に若者の夢を投影し続けてきた日本では、それだけでもドラマティックな番組ができそうだ。だが、甲子園出場は既に過去の事実で、それらは若者たちの今とこれからに繋がっている。重層的に折り重なる時間がテンポよく進み、番組としての抜けが良い。時折挟まれる震災直後の瓦礫の映像も、球児たちの甲子園の映像によってほどよい異化をもたらしている。

 「当たり前の生活を取り戻すので精一杯の中でも、野球をやりたい気持ちがあった」というキャプテンの阿部翔人さんを、周囲の家族は支え続けた。野球道具は流されたが、全国からの支援によって2か月後には練習を再開。部員たちに被災者から「生きる勇気をもらった」という手紙がたくさん届いた。

 阿部さんは、野球の指導者になることを志して上京し、体育大学の野球部に入部する。だが、入学直後に手術した右ひじに激しい痛みが生じ、3軍でボールも握れない日が続く。そんなとき、寮に戻って同級生のいない間に密かに見るのは、故郷の友人がくれた甲子園に出場したときのDVDだ。役者も小道具も揃いすぎているように見えるが、すべてが現実である。

 「自分が暮らしてきた街だから、自分の力で何とかしたい」。高橋健太さんは高校を卒業後、今も復旧が待たれる仙石線の保線作業の会社に就職する。会社の研修では作業着を着てつるはしのような道具を打つ練習をさせられるが、「野球部の素振りじゃないんだから」と上司に叱られ、「きついっす」と口にしながらも復興に従事する大人たちの責任の重みを知る。

「あきらめない街・石巻!!その力に俺たちはなる!!」。甲子園球場で掲げられた横断幕の文字が、番組中繰り返し映される。

「震災を安易に美談にしてはいけない。」と僕は口に出して言ってみる。

 けれども、なぜかそのようなジャッジをこの番組に対して下すことができなかった。ただ単純に2年という時間の経過が、私たちにあらゆるかたちの震災の物語を許容させているからだろうか。それとも、自然の猛威という動かしがたい存在の前に、若さというもうひとつの普遍的な存在が拮抗しているからだろうか。

 10年後、20年後、東北の人々が震災を振り返るとき、案外その脳裏にあるのはあの恐ろしい津波の映像ではなく、白球を追いかけた球児たちの横顔であるのかもしれない。

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