復興の中の破壊に目を向けよ
私が被災地の取材を続けている理由のひとつは、現地で聞いた「復興イコール破壊なんです」という被災者の声が忘れられないからだが、つい最近もこの言葉を思い出す場面に出会った。それは行方不明者の家族の、複雑で多様な思いをヒアリングしているときのことだった。
少なくない行方不明者家族が、今ではほとんど行なわれなくなってきた警察やボランティアによる捜索活動に一縷の望みを繋いでいる中、私も現地で行なわれた捜索ボランティアに参加した。もちろん、行方不明者家族が見つかることを望んで、だ。
しかし一方で家族の思いをヒアリングしていくうちに「捜索をしてほしくない」という別の行方不明者家族の声があると知ったのだ。娘が未だ行方不明であるというその女性が話してくれたのは、以下のようなことだった。
自分の子どもが見つかるとしたら、それはほとんど生前の姿かたちをしていないだろう。たとえば爪の先だけ見つかって「これが娘さんです」というようなリアリティのないものになるだろう。そうしたときに、それが娘との対面であるということが心から納得できないだろう、と。だから心の準備ができない、というのだそうだ。
もちろん、だからと言ってその女性はこれまで行なわれてきた捜索をやめてほしいと言っているわけではない。他の人が捜索をしているのを引き止める気持ちはない。
ただ、当人の心の準備ができないうちに周りが捜索を始め、やがて望まない対面の瞬間が予期せぬところから訪れることを考えたとき、私は震災直後に自ら体験した瓦礫撤去のボランティアのことを思い出す。
津波によって破壊され、うずたかく折り重なった街の瓦礫をひとつひとつ取り除いていく作業に従事していたときのことだ。作業は基本的に現地の人から要請があり、ボランティアセンターを通じて有志の人々に委託される。瓦礫が取り除かれなければ、新しい街もつくることができない。そう思い、私自身も復興のために、と従事した。だが後になって被災した人々から以下のような声を聞いた。
「瓦礫をそのままにしておいてほしかった」、「街の記憶が取り除かれる」、「街の復興に心の復興が追いつかなかった」。あるイベントで瓦礫に「我歴」という当て字をしている人々の存在も知った。
私がこれらの声に立ち止まらざるを得なかったのは、被災地の外側の人間の良心が、当事者たちにとってはまったく逆の価値を持って届いてしまうことを知ったからだ。それは復興の名の下にたくさんの人々が傷つくこと、あるいは「復興イコール破壊」という言葉の重みを示している。
メディアが復興のなかに含まれる「破壊」にあまり目を向けないのは、それが復興にブレーキをかける可能性を秘めているからだろう。
一方で耳障りの良い復興の物語を世間に送り続けるだけでは、現実と世間の認識のあいだに齟齬が生じ、被災者に新たな「生きづらさ」を突きつけることにもなる。それはもうひとつの「復興イコール破壊」だ、と私は思う。復興の流れは変わらないし変えられない。だとすれば、その影で押しつぶされるように耐え忍ぶ人々の声をメディアは記録すべきではないだろうか。