日常と地続きの原発

「入り口と出口がねじれている。」それは優れたドキュメンタリーのひとつの証しであり、また作り手にとって現実と格闘した傷跡、あるいは勲章のようなものであるかもしれない。「1F〜福島第一原発を追った900日〜」の視聴後、改めてそう思った。

 番組は福島第一原発の事故直後、制作者が現場作業員にマイクを向けるところから始まる。作業員たちが元請け業者の箝口令により口を閉ざす中、名前も顔も伏せるという条件で50人の作業員たちのインタビューに成功する。それが番組冒頭の触れ込みだ。

 50人といえば、取材量としてはまとまったもので、それらを組み立てて原発作業員の過酷な労働条件をあぶり出すことができたかもしれない。

 しかし番組はこれらの50人をばっさりと切り捨ててしまう。かわりに実名と顔の公開の承諾に踏み切った二人の作業員の日常を描く。第一原発で電源敷設に関わる現場リーダーの林和夫さん(49)と若手作業員の志賀央(あきら)さん(31)だ。かたや妻と年頃の娘3人と孫を持つ一家の大黒柱であり、かたや独り身の若手作業員である。週末に過ごす、埼玉に避難した家族とのかけがえのないひとときや、早朝の仕事に向かう車の中で頬張る出来合いのサンドイッチ。50人分の証言を捨て、一見原発と無関係な二人の暮らしを等身大で描いていく。

 新鮮な点もある。ナレーションが浪江町や南相馬市出身の作業員を「被災者」と呼ぶことだ。震災関連の番組で「被災者」という言葉が使われることは、少なくなってきている。それは被災した事実に変わりはなくとも、本人たちが自らのアイデンティティを被災の事実に置いているか、そこから離れたり忘れようとしたりする動きの中に置いているかによって、「被災者」というレッテルがプラスにもマイナスにも作用するからだ。

 しかし、この番組の場合そうした暗黙のルールを敢えて破っているようにも思える。津波の被害は自然災害であるが、原発は人災である。我々の文明のあり方のしわ寄せがここにある、ということを視聴者に改めて投げかける意図なのかもしれない。

 衝撃的な事実もあった。昨夏、ニュースとして大きく取り上げられた「汚染水の漏洩問題」を林さんは事故直後から予期していた。現場の危機感が世間にほとんど知られることなく埋もれてきたこと、事故収束宣言など無意味なパフォーマンスでしかなかったことを物語る映像だ。しかし、番組はそれらでさえ原発をめぐる一風景、作業員の日常の一コマに過ぎない、というスタンスで描く。

 番組が後半に差し掛かり、林さんが30年勤めた原発を辞めてハローワークに赴き、志賀さんが津波で流された実家の跡地をめぐる頃、視聴者はある種の「重さ」を受け取ることになる。それは原発事故がわたしたちの暮らしと地続きになっているという感慨である。

 900日という長い取材のどこかの時点で、おそらく制作者は打たれるような気持ちでその「重さ」に立ち合うことになり、50人分の証言の断片を捨てて、その「重さ」を描こうと決意したのではないか。

 こうして生まれた入り口と出口のねじれは、制作者が原発作業員を取材する中で、少なくない発見をしたことの証しでもある。

 「目を凝らすと無数の作業員の懸命な生き様がそこにはあります」――最後のナレーションこそ、そうした制作者の発見の表れであるように思う。


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