死者に生かされる人々

 「死者が生きている人をケアしている」。震災犠牲の家族と向き合ってきた医師の言葉は一見、異様だが震災で深い傷を負った人々の心のうちをよく表している。家族を亡くした被災者の奇妙な体験に光を当てた異色の番組の一節だ。

 女川町で被災した木村信子さんは震災の日、目の前で苦しみながら沈んでいく母を見ていることしかできなかった。震災から半年が過ぎた午前四時、一人眠れずに母のことを考えていると、その母が別の場所で亡くなった父と共に、目の前にぼおっと現れた。鮮明な姿になり、やがてもやがかかったように消えていった。

 宮城県の介護施設の須藤文音さんは津波の二週間後に棺桶に入った父と対面するが、その一週間前に奇妙な体験をする。外出先の鍵つきの靴箱を開け、靴を出して履こうとすると靴の中に白い花が入っていた。それは後に棺桶の父の胸元に置いてあった花と同じものだった。

 石巻市で3歳9か月の康生くんを亡くした遠藤由理さんは震災から2年が経った頃、家族と食事をしている最中に何気なく「康ちゃんもこっちきて食べなよ」と声をかけた。すると、離れたところにあった康生くんのおもちゃが、まるで返事をするように「出発進行!」と音をたてた。

 岩手県に住む川村裕也さんは妻と11か月の長男と生後7日の次男を亡くした。父親らしいことをしてあげられなかったと自分を責め、死んだほうがいいのかと思い続けたが、2年が過ぎた春、夜中に突然肩を叩かれ、成長した息子たちに再会する。

 番組はこれらの体験に科学的なメスを入れない。ただ、どのエピソードにも共通することは、待ちこがれた亡き家族との再会が、死別してもなお深い繋がりを実感させて、家族を失った人の止まっていた時間が、再び動き始めるきっかけになっていることだ。冒頭の言葉はそのことをうまく表している。

 余談だが、私にも取材中の奇妙な体験がある。被災した名取市の閖上中学校の音楽室を訪問したとき、誰もいない部屋の隅のストーブの近くから静かな寝息が聞こえてきた。不可思議な体験に鳥肌を立てながらも、その寝息の穏やかさを怖れる必要はまったくない気がした。その体験をどう理解して良いかずっとわからないでいたが、番組を見て何かが腑に落ちた。

 「穏やかな表情に救われた思いがした」、「息子たちはいまも一緒に時を刻み、成長している。そう思うことで生きる力が湧いてくる」、「ああ遊んでいるんだと思って笑顔になった。康ちゃん来たんだ、こういうことできるんだって」。

深い悲しみの底に一片の晴れやかさとぬくもりが漂っている。人は愛する人を失ってもなお、あらゆるかたちで彼らと交流することができるのだ。そしてそこには豊かな心の営みがあるのだろう。

 ただし、一点だけ引っ掛かった。お盆は過ぎたとはいえ、8月の放送はいかがなものか。「亡き人が返る季節に」という意図はわかるが、それでは番組の持っていたニュートラルな視座が、日本の古い慣習としての死生観にからめとられてしまう。番組がつかみ出そうとしたものは、非日常からやってきて再び非日常へ戻ってしまう「死」ではなく、私たちの暮らしの端々に、いつも静かに存在している「生の一部としての死」であるように思えたからだ。

ばんば


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