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「取材者と被災者」を超えて

 編集部の意向で本連載も終わりを迎えることとなった。復興の途上で連載を終えてしまうことに自責の念を禁じ得ないところだが、最後に現地で知り合った一人の男性との貴重な出会いを振り返ってみたい。

 橋浦顕さんは宮城県名取市でタクシードライバーをしながら自らの被災体験を語る、語り部ドライバーだ。私が東北に赴くと仮設住宅に私を招いて酒を片手に現地の話しを聞かせてくれる、希有な水先案内人でもある。

 彼と出会ったのは宮城県名取市の避難所でのことだった。タクシー運転手だった彼は、自宅が全壊したものの未曾有の災害に対してできることは何かと考え、運転のボランティアを買って出た。彼の案内により、私をはじめ海外のフォトジャーナリストたちは岩手県宮古市から福島県南相馬市までの広範な被災地を訪れ、災害の凄まじさを肌で感じることになった。

 彼が語り部を始めたのは、案内した海外のジャーナリストたちの取材姿勢に触発され「自分なりにできることを」と考え、復職したタクシー運転業のあいまに、被災地を訪れた人々を案内し始めたのがきっかけだった。

 活動の中では、閖上地区の小学校を訪れ、震災当時の写真を使って当時の惨状や、防災無線が鳴らなかった状況を説明する。また防災無線が鳴らなくとも本能的にいち早く危機を察して内陸へ避難した自分の体験から、危機感を持つことの重要性も伝えている。

 もうひとつ橋浦さんが震災直後から訴えていることは、「避難所には二種類ある」ということだ。津波などの災害から一時的に命を守る場と、その後の長い避難生活を凌ぐための場所であり、両者を分けて考えるべきだという主張には実体験を踏まえた説得力がある。

 これまでに語り部として案内した人の中には、遠方から訪れた教員、市の職員、新聞記者、自治会長、消防団員などもおり、中には地域の防災に役立てたいとする人や、橋浦さんが送った写真を使って地元で写真展を開催した人もいる。

 彼はこれらの活動を手弁当で行なっているが、私が本当の意味で心を打たれた理由は別のところにある。それは彼の暮らしの端々に現れる、立ち止まるべき瞬間ともいえるものだ。

 出席した街づくりの会合での納得のいかない話し合いに苛立つ横顔や、冬の冷たい朝に更地になった故郷に向かって朗々と般若心経を唱える姿。あるときはこんなことも語ってくれた。「いつもの交差点で左のウィンカーを入れて、青信号で左折しようとしたときに思う。『あ、しまった。閖上、なくなったんだわ』」故郷をまるごと失うことの何たるかが思いがけず垣間見えた瞬間だった。

 被災してなおボランティアを行なう献身はいったいどこから来るのかと尋ねると、「娘が助かったからだ」という。彼は震災を経て今を生きていることの深い感謝の中にあるのかもしれない。

 そんなふうに彼との時間の中には取材という枠を越えて人として学ぶ瞬間がいくつも含まれていた。そしてそれらの瞬間はいつでも私が東北に通い続ける理由であり続けてきた。

 本連載が終わっても、長い復興への道は続き、その過程には橋浦さんをはじめ、無数の人々の人知れぬ努力と忍耐があることだろう。それらの横顔に放送番組制作者たちのあたたかな眼差しが注がれることをこれからも期待して連載を終えることとしたい。


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