引き上げのプロになるまで

 

 1

 

 吉田が初めて行方不明者の捜索と引き揚げに携わったのは、平成十年頃のことだった。バブルがはじけた後で、日本は長い不況のさなかにあった。仙台港に入水する人の数も増えていた時期で、その件数の多さに警察も手を焼いており、民間ダイバーの手を借りて、なんとか事態を打開したいと苦慮しているところだった。

 当時の吉田は潜水士としてすでに十年程度のキャリアを積んでいて、塩釜の桂島の離岸堤の水中土木工事に従事している頃だった。「出来形管理」といって、海中に完成した離岸堤の基礎を写真に収める水中写真撮影が主な仕事だった。

 連日現場に出ては潜っていたある日、元請けの会社から「ちょっと車が落ちたので引き揚げてくれないか」と何気なく頼まれた。それは珍しいことではなかった。以前にも現場の作業中にたまたま海中に沈んでいた車や船が見つかったことがあり、それらの引き揚げを頼まれることはよくあることだった。吉田は深く考えることなく「わかりました」と引き受けた。そして今日も一日三万二千円ばかりの日当を稼ぎにいくのだ、と軽い気持ちで指定された港湾に向かった。

 朝八時半に現場に到着すると、ものものしい雰囲気が港湾全体を包んでいた。消防、警察、港湾事務所の人たちがたくさん集まっていて、なぜかテレビカメラも来ていた。聞けば警察の人が車ごと海に落ちて自殺したということだった。派出所の所長が病気を苦にして自死に至ったらしかった。

 現場ではじめて車の中に人がいるのだと知らされ、自分が遺体の引き揚げをやることになるかもしれない、と考えた。吉田は嫌だなと思った。もちろんそれ以前から潜水業界に引き揚げの仕事が存在することは知っていた。吉田の父、浩も潜水士として二度ほど引き揚げをしたことがあり、吉田もそれを聞かされていたからだ。

 しかしそうした仕事はたいてい警察や消防が行なうもので、自分自身にその役回りがめぐってくることはないだろうと思っていた。ところが、今それが自分に回ってきつつある。車だけの引き上げで済むのか、それとも遺体も引き上げることになるのか。とにかく早く終わらせたいなという気持ちが募った。

 呼ばれはしたものの、まずは機動隊が潜るということで、吉田は港湾事務所で待機させられた。呼ばれたにもかかわらず待機というのは奇妙なものだったが、これには理由があった。それはこの時海に落ちたのが警察官だったということと関係があった。慣例に従い、警察の行方不明者は警察内部で捜索することになっている、というのがその理由だった。そこで吉田は遺体の引き揚げが終わった後、車だけ引き上げて欲しいと頼まれた。

 しかし警察は手こずっていた。海面に沈んだ車の位置は既に音波探知機によって水面下十三メートルにあると特定されていたし、そのちょうど真上の水面には車の位置を示すブイも浮いていた。にもかかわらず、警察機動隊のダイバー隊は水面を回遊してはちょっと潜り、というのを繰り返しているだけだった。

「車が移動しました」

「車が動いています」

 水面にあがったダイバーたちのそんな報告が聞こえてきた。どうやら視界の悪い海中での引き揚げ作業が難航しているようだった。後に聞いたところによれば、その時七人いたダイバー隊員の中には、ダイバー隊に入って三か月だという経験の浅い者もいた。当時の吉田はまだ二十代後半だったとはいえ、既に十年のキャリアを積んでおり、どうしてこんなに簡単な作業ができないのかと苛立った。

 昼飯を食い、午後になっても一向に呼ばれない様子を見た吉田は、半ば呆れ、やがて居眠りをはじめた。厚手のドライスーツを着たまま岸壁近くの車のタイヤにもたれかかると、春先の陽気が気持ちよかった。

 目が覚めた後もまだ呼ばれなかった。吉田がしびれを切らして「もう帰ります」と言い始めたとき、やっと出番が回ってきた。現場の情報は錯綜していて、まだ車の中に遺体が入っているという人もいれば、入っていないという人もいた。気の短い吉田は「とりあえず潜ってみればわかる」とさっさと入って行った。

 潜ってみるとひっくり返った車が海底のヘドロに埋まっていた。海の底は水が澄んでいて、青白い顔をした年配の男性が目を閉じたまま逆さになっている様子がよく見えた。その表情はスッとしていて、一見寝顔のようにも見えたが、それまで陸上で見慣れてきたどんな人間の姿とも違った静けさがあった。ゾワッと鳥肌が立つ。「ああ、これか」と思った。

 

 吉田は車の対角線に位置する二カ所にワイヤーを括り付け、素早く海面に上がるとクレーンの操縦士に引き揚げの指示を出した。警察の判断によって車ごとあげて良い、という指示が出されていたため、遺体を触らずに済んだことは幸いだった。車が水面から上がり、岸壁に逆さのまま置かれると、吉田はその車をひっくり返す作業にも手早く指示を出した。終わってみると作業時間は十五分程度のものだった。

 ただ、意外にもそれを岸壁から見ていた関係者のあいだに、「このダイバーはうまい」という評判が広がった。手こずっていたダイバーたちの様子を見ると、ある程度技量に差があるのは間違いがなさそうではあった。

 そのこともあってか、後日「話しがある」と、再び港湾事務所に呼ばれることになった。言われた通り翌日に事務所を訪ねてみると港湾関係者と警察と消防の面々が集まっていた。

「実は引き上げる人が欲しいのです。」

 夜間に人が落ちても、現状だと次の日の朝か昼にならないとダイバーを手配できない。そこで二十四時間引き上げに対応できる人が欲しいのだという。

 その頃宮城県警は、長引く不況のあおりを受けて急増する自殺者の引き上げに手を焼いていた。数字で言えば年間十件程度のものでしかなかったが、それらは年の瀬などの同じ時期に集中していた。

 飛び込みの事案が増えていた仙台港の雷神埠頭、高松埠頭、中野埠頭のあたりは、フェリーや大型船の発着場所となる重要な場所だった。人が落ちれば、次の船が入ってくる前に素早く引き上げなければならない。もし引き上げる前に船が入ってきてしまえば、車ごと船底に潰されてしまい、事件性の有無を確認するための手がかりもすべて失われてしまう。何より接岸する船を傷つけてしまえばさらなる大事故につながりかねない。夜間であろうと、とにかく迅速な引き上げが求められていた。

 それらを引き上げるのは本来、警察や海上保安庁などのダイバーであったが、彼らには迅速に動けない理由もあった。機動隊が動くには、まずは派出所からの要請の段階で幾つかの電話を経なければならない。その後隊員が自宅から隊に駆けつけ、そこからはじめて現場に出動という流れになり、どうしても時間がかかってしまう。また現場に出動したとしても、内部規定によって潜水時間、休憩時間などの定めがあるうえに、悪天候などによっては出動が見送られるなどの制約があった。民間のプロダイバーであれば、これらの制約をある程度クリアできると期待されていた。

 加えて重機の問題もあった。引き上げに使うクレーンなどの重機は保安庁や警察、消防のどこも持っていなかったのだ。そうなるとこれも民間の業者に頼まなければならない。

 こうした背景から、それまでにも民間ダイバーに依頼するということはあった。だが個別案件ごとに依頼をかけてはその場しのぎをしているという状況だった。そこを半ば専属のようなかたちで毎回協力できないか、というのが警察や港湾事務所側の要望だった。それだけ案件が急増しており、警察としてもなんとか打開策を見出そうというところだった。

 吉田はそれを聞いた時、意外だと思った。引き揚げに関しては民間人の自分より、警察や消防の方が現場経験も多く、腕は良いだろうと考えていたからだ。だからそのちょっとした補佐として入るくらいのものだと軽く考えた。

 「わかりました。いいですよ」

 遺体を扱うことに関してはやはり気が進まなかったが、たった数十分程度の時間で終わるのだし、夜中に人が落ちるということもそうたくさんあるものでもないだろう。せいぜい年に一度か二度くらいのことに違いない。そう思っていた。 

 

 

 2

 

 

 だが程なくして夜の海での引き上げを依頼された時、吉田はやはり身構えるような気持ちになった。自殺者は夜に入水することが多いというのは聞かされていた。だから引き上げの依頼も夜になるかもしれないという予感はあった。だが視界の効く昼間と違って夜の海は暗く危険度が高いうえ、独特の閉塞感がある。そんな中でたった一人、遺体と向き合わなければならないのだ。

 「ついに来たか」

 ただ単純に夜の海に潜るということに限って言えば、ある程度経験を積んだ土木の潜水士にとってはさして珍しいことではなかった。もともと潜水土木の現場には潮位の関係で満潮や干潮の時間帯を狙うために夜間にしかできない「夜業」と呼ばれる作業がある。視界が悪く危険度も高くなるため、技術や経験が求められる仕事だった。言い換えれば夜業を任されることは、潜水士としての一つのランクアップを意味していた。

 吉田も二十代のはじめの頃に初めて夜業を任された。危険で緊張感もあったが、それまで見たこともなかった暗い海に不思議な魅力を感じもした。その時、吉田は新しい仕事を任せてもらえる嬉しさもあって、勇んで暗い海に潜っていった。深い闇にライトを照らすと白い光が綺麗に反射して美しかった。作業を始めると自分の動きで水が濁って視界が悪くなり、上も下も分からないような圧迫感にぞくっとする怖さを感じた。冬の寒い夜のことで、海面に上がると澄んだ星空がことさら綺麗に見えたものだった。岸壁に上がると豚汁が振舞われ、夜業の労がねぎらわれたりもした。それ以来、夜の作業現場と聞くと通常の昼間の現場とは違った「お祭り現場」のような感じがして、吉田は密かに浮き立つような気持ちになったものだった。

 

 だが遺体の引き上げとなれば、暗い夜の海の感触も全く違うものになるに違いなかった。しかも前回の現場では車ごと遺体を引き上げればよかったところを、今度は自ら遺体を抱きかかえて上がってこなければならないとのことだった。そのことも吉田を憂鬱にさせた。

 車の中に人が入ったまま車ごと引き上げるか。それとも車の中から人だけを先に出すか。できれば、遺体を触らずに車ごと上げられるに越したことはない。だがそれを判断するのは吉田ではなく、現場ごとに指揮を執る警察、または海上保安部の裁量に任されていた。

 その警察による判断とは、概ね以下のようなものだった。まず人が落ちて間もない場合は蘇生の可能性を考慮し、人だけをいち早くあげなくてはならない。カーラーの救命曲線によれば、呼吸停止から数十分が経過すれば生存の可能性は極めて低くなる。その意味では、人が海に落ちた事案で「人命救助」が現実のものとなる可能性はほとんどなかった。どんなに早くても通報から引き上げまでに数十分はかかってしまうからだった。だがそれでも入水直後の引き上げの目的はあくまで落水者の「救助」ということになる。

 ただ、人が落ちてからある程度時間が経ってしまうと、「車ごとあげてくれ」という依頼に変わることもある。特に現場の指揮が警察による場合、現場検証のためになるべく現場を保存したいという思いが働く。詳しく調べ、自殺なのか事件なのか、事故なのかを判断する必要があるためだ。そこで遺体に手をつけずに車ごと上げて欲しいという要望が現場に通達される。

 例えば自殺者がハンドルに自らの腕を縛り付けて入水した場合、人だけを先にあげると、潜水士が引き上げの際にハンドルに結ばれた腕を解く必要がある。だがそれでは現場の検証に必要な証拠が損なわれてしまうのだ。

 あるいは、人だけを先に引き上げようとしても、ドアが開かなかったり、窓を壊してもどうにも人だけを引っ張り出すことができないということもある。そうした理由から最終的に「車ごと」という指示になることも少なくなかった。

 反対に車ごと遺体を引き上げることによって遺体を損傷させてしまう可能性のある状況では、やはり車とは別に遺体を先に引き上げなくてはならない。

 

 この日、吉田が警察から受けた依頼では、人が海に落ちてからすぐの通報だったため、生存の可能性を考慮して先に人を引き上げてくれということだった。現場に着くと、消防が焚いた投光器の光の下、海面にひとつのブイが浮いていた。事前に海上保安部の担当者が船上から音波探知機によって場所を特定し、目印としておいたものだった。その下を潜っていけば車があり、中に人が入っている。そこまでは前回と同じ作業だった。

 吉田はいつものようにドライスーツに身を包み、ボンベを背負うと海に潜った。海中は暗く、投光器の光も届いていなかった。ライトをつけると、暗い水の中に青白い光の帯がぼおっと浮かび上がった。海底に達した時に顔をぶつけてしまわないように、手をかざしながら水底へと降りていった。指の間を夜光虫がきらきらと輝きながらすり抜けていき、やがて暗闇に消えていった。

 海底に着き、ライトでそっと照らすと、ハッチバック式の車がひっくり返ったまま海底のヘドロに刺さっていた。近づいた時、思いがけず狼狽したのか、誤って車体に頭をぶつけてしまった。いつもならあるはずのないミスだった。

 吉田は逆さになった車体の後部からそっと中を覗こうとした。遺体と目が合ってしまうのを避けるため、まずは後ろから覗いて様子を見ようと考えたのだ。だが、おそるおそる覗いた瞬間、逆さになった遺体の顔が目の前に飛び込んできた。半目を開けた初老の男性が、口から泡のようなものを出している。青白い、虚空の表情だった。

 予想に反して遺体はフロント座席の間で後ろ向きになっていたため、正面から相対することになったのだ。吉田は逡巡し、しばらくのあいだ車の周りを回遊していた。服を掴めば引っ張り出せるだろうか、いや、それではやはりうまくいかない。腕を掴もうか、足を掴もうか、あるいは胴体を掴むべきか…。ボンベの空気音がシューシュー、ゴボゴボと鳴った。

 考えた末、ゆっくりと手を伸ばし、遺体の手首をそっと掴んでみた。するとまだ人間としての柔らかさがいくらか残っていた。その生々しさが予想外の衝撃であったためか、そのまましばらく動けなくなってしまった。そして一度掴んでしまうとなぜかその手を二度と離してはいけない気がした。

 やがてその手首を少しずつ引いてみると、関節は曲がりにくく、重いことがわかった。すでにある程度の死後硬直が始まっているようだった。そのまま遺体をそっと車の中から出すと、背中から抱え込むように抱いた。一度触ってしまうと、それが遺体であることもさほど気にならなかった。遺体は意外なほど軽く、ほとんど重さを感じなかった。まるで水を含んだ枕か何かを抱いているようだった。そのせいか、車から出すと腹や腰に手を添えるだけで、自然と海面に向かって浮き上がっていった。

 ゆっくりと浮上するあいだ、吉田の鼻先で遺体のシャツの襟がひらひらと揺れた。やがて水面に顔を出すと、遺体は一気に重くなった。重力によって人体本来の重さがのしかかってきたためだ。岸壁まで泳ぐのも一苦労で、待機していた海上保安庁の船に引き渡すのも骨の折れる作業だった。終わってみると数十分の時間でしかなかった。だが、いつにない気だるい疲れがどっと出た。

 

 後年、吉田は幾度となく遺体の引き上げを繰り返すようになり、遺体への抵抗は少しずつなくなっていくようになる。だがそれでも初めて遺体を触ったときの独特の感じは吉田の中に意外なほど長く残り続けた。

 生きている人間に触るのはたやすいことだった。死んだ動物の肉を毎日のように食べてもいた。だが死んだ人間を触ったという事実は、そのどれとも違った感触を吉田の肌に残した。

 

 3

 

 それからというもの、吉田の電話は夜間に頻繁に鳴るようになった。ほとんどが仙台港のどこかの岸壁から人が海へ落ちたので引き上げてほしいというものだった。中には事故もあった。車で海を見に来て、ブレーキとアクセルを間違えて落ちてしまったという人や、釣り客が誤って海に落ちてしまったということもあった。あるいはローリング族と呼ばれる若者が集団で港の岸壁に乗りつけ、ドリフト走行をしているうちに誤って海に落ちてしまったということもあった。

 だが大半は自ら海に飛び込んで自殺を図るというケースだった。当時は九十年代の終わり頃で、日本経済はバブル崩壊後の先の見えない不況のさなかにあった。企業によるリストラも多くなっていた時代で、自殺者が全国で初めて三万人を越えようという時期でもあった。会社の経営が行き詰まり負債を抱えて自らに保険金をかけ自殺する人や、再就職先が見つからずに精神的に行き詰まって自殺する人もあった。

 人が海に落ちる時間帯は夜の十時から朝方四時までの間が一番多く、のちに吉田は年間三十件、多いときで一日に三件も引き揚げを頼まれるということにもなった。夜に「落ちた」という電話があり、引き揚げて朝帰ろうとしたら再び「落ちた」と連絡があり、その夕方に「また落ちた」という連絡が入ったのだ。文字取り寝る暇もなく引き上げ作業に従事しなければならなかった。

 この頃の吉田は、次々と人が海に落ちて自殺することに対して怒りに近い感情を抱いていた。「人は死ぬ気になれば何でも出来るはずだ。自ら死んでしまうなんて精神的に弱かったのだ。だらしない」とすら思っていた。それに死ぬにしても海で死ねば捜索や引き揚げに金も手間もかかる。一人でそっと首を吊ればいいところを遺族にも迷惑をかけて…。吉田は次々と上がる遺体を目の前にして、死というものをどこまでも他人事のように捉えていた。少なくとも当初は、やむを得ない事情で亡くなってしまった人々に同情して、なんとか力になってやりたいという気持ちは皆無に近いと言えた。

 

 にもかかわらず、吉田は夜中に電話が鳴っては引き上げをするということに奮いたつような気持ちで臨んでいた。それは正義感や同情心といった死者に向けられる思いというよりは、もっと個人的な理由、すなわち潜水士の家系に生まれた吉田ならではの、焦りや葛藤や劣等感に端を発していた。

 

 吉田の祖父にあたる熊治の名は牡鹿半島近辺の潜水関係者の間では名を知られていたし、父、浩も吉田が独立する頃までには、かなり腕の良いダイバーとして活躍するようになっていた。吉田が潜水士になりたての頃、出会った人々は口々に言ったものだった。

 「浩さんの息子なのか」

 「吉田といえば、熊治さんという人にお世話になったなあ」

 どこに行っても父や祖父の話が出るということは吉田としても誇らしいことではあった。特に祖父熊治に関しては、肩で風を切る海辺の男たちの間でも「いい人だったんだ」と評判であったらしかった。吉田としてもその事が嬉しくもあった。

 ただ、そう言った祖父や父の素晴らしい評判を聞くにつけ、吉田は彼らに勝てるだろうかと自問する事も少なくなかった。そして考え抜いた末の結論は「単純な潜水の技量では勝てない」というものだった。

 特に父浩に対して勝てないという事実は、若い頃から同じ海に潜り、同じ現場で同じ作業を繰り返す中で、嫌という程思い知らされていた。浩の海中での作業スピードには尋常ならざるものがあった。

 当時現場で多用していた潜水様式には足ヒレをつけて泳ぐスキューバ式と鉛の靴を履いて海底を歩くヘルメット式があった。一般的には、水中では歩くよりも足ヒレをつけて泳いだほうが早い。だが、吉田が足ヒレをつけて泳ぐスピードと、浩が鉛の靴で歩くスピードが同じだった。吉田の動きが特に緩慢だということはなく、むしろ平均的なダイバーよりも動きはいくらか良いのではないかという自負はあった。

 だがそれでもそれだけのスピードの差が出るのは、浩の動きが尋常ではなく素早いからだった。その差は、例えば単純に海底にブロックを並べるという作業をした場合でも、吉田が五つのブロックを並べる間に浩は十近いブロックを並べてしまうという具合だった。そして祖父熊治に至っては、浩が「俺よりも速い」と事あるごとに言っていた。吉田は祖父の熊治と一緒に潜った事はなかったが、父の話から自分には足元にも及ばないのではないか考えていた。少なくともそれらの仕事の力量は一朝一夕に埋められるものではなかった。

 だとすれば祖父や父に見劣りしないためにはどうすればいいのか。そして悩んだ末に、父や祖父と違うことをやらなければ、他人は認めてくれないだろうと思い至った。人のやりたがらないことをやっていくしかない。潜水技術そのものよりも精神面で勝っていくしかないと思った。吉田を遺体の沈む暗い海へと駆り立てていたのは、死者に対する同情ではなく、潜水士としての劣等感と反骨精神であった。少なくともある時期までは。

 

 

 遺体の引き揚げの仕事を引き受けることによって、吉田の生活パターンも大きく変わっていった。それまでに請け負っていた昼間の水中土木の仕事はまったく手につかなくなった。すでに独立をして会社の経営にも携わっていたが、夜中に仙台港で引き揚げに従事すると朝方に帰ることになり、そこから眠ると、昼間の出社ができなくなった。昼夜逆転の生活が数日続き、数日かけてそれを徐々に戻していくという変則的なサイクルが始まった。

 そして何よりも、遺体を引き上げるという仕事には想像以上に厳しい光景がつきまとうことにも気づき始めた。川で落ちた遺体などは水流によって流されていくうちに岩や川底にぶつかるために全身が打撲してしまう。そのため悪くなったバナナのように黒ずんでしまったり、関節が折れてピカソの絵のようにおかしなかたちになったものもあった。ガスが発生してにおいがきつかったり、関節から先がないということも少なくなかった。

 また何年ものあいだ行方不明のままになっていた人の遺体も吉田を悩ませた。そうした古い遺体は水中で腐敗が進み、溶けて崩れ落ち、手足や頭がなくなっているものも多かった。そんなとき引き揚げようとして遺体を掴むと、溶けて濡れた石灰の固まりのようになった人肌がぬるりとそげ落ち、なんとも言えない嫌な感触が指に残ったりもした。

 

 遺体に向き合うということは、吉田が自分で思っている以上に強烈な体験であるらしかった。とりわけ遺体の顔は、忘れようとしても忘れることができなかった。水中での遺体との対面はわずか数十分のものでしかなかったが、最初にその表情を見た時の光景がデスマスクのようにそのまま吉田の脳裏に刻まれた。それによって、何十という遺体を引き上げたあとも、吉田ははっきりとその死に顔を思い返すことができた。あるいはそんなふうに他人の死に顔をたくさん見続けたためだろうか、日常生活の中でふと他人の顔を見て「この人が死んだらこんな顔になるだろうな」と頭の中でぼんやりと思うこともあった。

 

 

 4

 

 

 一年も経たないうちに、十数件の引き揚げに従事すると、吉田の精神も徐々に蝕まれていった。遺体の引き揚げ現場の緊張感が思いがけず尾を引いたのか、日常のふとした瞬間に作業の情景がよみがえってくることがあった。例えば、こんなことがあった。家に帰って幼い息子と遊んでいた時に息子が「パパー」と言って吉田に抱きついてきた時のことだった。その時の息子の腕の形が水中に浮遊する遺体の腕の形とそっくりだったため、瞬間的に海中の遺体の情景が蘇ってきた。あるいはタクシーに乗り、後部座席に座って運転手と話をしている。その運転手のうしろ姿が車ごと海中に沈んだままの男性にオーバーラップしたということもあった。フラッシュバックというやつだった。

 仕事に支障をきたすほどではなかったが、鳴ってもいない電話の音が聞こえたり、家の寝室で寝ていたにも関わらず朝起きたらどこにいるのかわからない、という自失の念にかられることもあった。

 死者を引き上げる作業の鮮烈な情景はとりわけ夢の中にも色濃く現れた。夜中に悪い夢を見てうなされては目を覚ますということが多くなった。そしてその悪夢は決まってだいたい同じ内容だった。それはこんな夢だった。

 警察の電話で引き上げの依頼を受けて潜水道具を揃え、「行ってくるから」と妻に言い、車に乗り込む。夜の道を港に向かって走り、やがて街頭がぼんやりと灯る仙台港の岸壁に到着する。いつもの警官が声をかけてくる。

 「吉田さんお願いします。ごくろうさん、寒いのにね。」

 暗い港の岸壁に吉田と警官のサーチライトがふたつだけ揺れている。

 「気をつけて行くんだぞ」

 「わかりました。じゃあ、行ってきます。」

 岸壁からどぼんと飛び込み、泳いでブイにつかまり、すーっと潜る。深度が増し、闇が深まる。やがて海底に沈んだ車の位置を確認すると持っていたサーチライトを自分の肩にはめ、車のドアを開けて中に入る。

 運転席には半目を向いてだらりと座っている男性がいる。シートベルトを外そうとすると、男性の腕が急に伸びて吉田の腕を掴む。驚いた吉田が腕を振り払う。引き返そうとすると闇の中からたくさんの腕が出てくる。腕は吉田の肩や腕や足を掴み、車の中に引きずりこもうとする。子供の手や大人の手、指輪をしている手もあれば女の人の手もある。吉田は水中ナイフを振りかざし、それらの腕を切り裂こうとする。さらに無数の腕が次々と現れ、ウェットスーツやベルトやボンベを引きはがそうとする。もがきながら恐怖がピークに達して目が覚める。隣で妻が「どうしたの」と目を覚ます…。

 うなされるような悪い夢を繰り返し見たのは、実際に似たような出来事があったからかもしれない。ある時、沈んだ車のドアを開けてシートベルトを外し、中にいた男性の遺体をドアの外に出そうとしたことがあった。だが、男性の身体の前を通って、右手でシートベルトのロックを外そうとした時、ハンドルを握っていたはずの男性の手がゆっくりと動き出して吉田の顔にぺたっとついた。吉田はゾッと鳥肌が立ち、身構えた。

 だが、もちろんそれは単なる偶然かもしれなかった。吉田が吐き出した空気の泡や、吉田の作業によって動いた海水の流れが、何かの加減で遺体の関節を動かしたのかもしれなかった。いずれにしても暗い水の中での恐怖が、知らぬ間に吉田の中に澱のように溜まっていき、かたちを変えて繰り返し夢の中に現れた。

 

 

 5

 

 

 悪夢を見ることと時を同じくして、吉田は奇妙な体験をすることになった。それは夢の中ではなく、実際の捜索現場で起こった。捜索のあいまに突然一人で笑い出してしまうのだ。そしてそれは決まってあるタイミングで起こった。依頼を受けて潜り、遺体を引き上げて浮上する。岸壁に上がってドライスーツを脱ぐ。そして我に返ったときに、なぜか急に笑いが込み上げてくるのだった。人気のない岸壁の上で、一人声を出して「へへへ」と笑う。端で誰かが見ていれば気味の悪い男だと思われかねない状況だった。

 しかもそれは一度や二度のことではなく、間の悪い時には岸壁に遺族が来ているところでそのような笑いが止まらないことも何度かあった。決して死んだ人を笑っているわけでもないし、馬鹿にして笑っているわけでもない。何か面白いことがあるわけでもない。にもかかわらず笑いが込み上げてしまう。それを見た警察官に「吉田さん、笑っちゃダメでしょう」と諌められ、その度に別の場所に移ったり、あるいは自分で笑いが止まらないと思った時は自ら誰もいない物陰に移ったりした。

 こうした吉田の笑いを見て港湾関係者や警察官の中には訝る人もいたが、最初は吉田に捜索を依頼している手前もあってか、皆遠慮してあまり言わなかった。ただ、何回か続いた頃に叱られた。

「吉田さん、なんで笑うの?笑うところでねえんでねえの。不謹慎でねえの」

 自分でもなぜ笑うのかよくわからなかった吉田は、「ああ、すいません」と謝ってその場を切り抜けた。もちろん吉田にも引き上げの現場で笑うことが不謹慎だということはわかっていたし、死んだ人の家族の前で笑ってはいけないということも意識していた。次は笑わないようにしようと心に決めたこともあった。

 しかし、不思議と次の現場でも吉田は同じように笑っていた。不謹慎だと言われたことは一度や二度ではなかったが、止めようとしても止められるものではなかった。吉田にとってその笑いはあくびのように自然と出てしまうものだった。そして奇妙なことに吉田には笑っていることがどこかで正しいことだという直感があった。それは実に不思議な感覚だった。

 そうした不可解な笑いが続くうちに、吉田は頭の片隅であることをぼんやりと考え始めるようになった。それはこの引き上げの現場における奇妙な笑いが、ある種の安全弁のような役割を果たしているのではないかということだった。損傷のひどい状態の遺体を前にしたとき、恐怖心に引っ張られて自分自身が動けなくなってしまうことを避けるための、自然な心の機能なのではないか。笑うことで恐怖やパニックになりそうな心が辛うじてバランスを保っているのではないか。究極の恐怖を回避し、精神を守るためのセイフティ機能なのではないか…。

 そう考えれば、不謹慎だと言われても笑いが出てしまうことや、どこかで笑うことが正しいと感じていることも自分の中で説明がついた。一見不謹慎だが、笑いはむしろ遺体を引き揚げるのに必要なプロセスの一部に違いない…。

 それからというもの、吉田は次第にこの笑いに積極的な意味を見出していくようになった。現場で遺体を引き揚げるときに、自ら笑いをつくり出し始めたのだ。それはユーモアと呼び換えてもよかったかもしれない。例えば真っ暗な水の中でわずか数十センチの距離に遺体を発見したとき、吉田は小さな子供がぬいぐるみにでも話しかけるように心の中でつぶやくことがあった。

 「なんだきみ、こんなところにいたの。ここだったの、早く言ってよねえ、もう」

 そうすることで恐怖におののく気持ちや逃げ出したい気持ちを正常に戻し、そこから先の数十センチの距離を縮め、近づいていくことができた。それはいわば自分で自分に暗示をかける自己催眠のようなものだった。現場数を重ね、引き上げの現場で笑いが出てくることを経験するうち、遺体の引き上げに関する恐怖心も和らいでいく気がした。そして次第に吉田はこの考えに自負を持つようになっていった。

 不謹慎だと言われることは多々あったし、確かにそれは認めねばならないことでもあった。ただ吉田の笑いは一般的な不謹慎さとは一線を画していたと言えなくもない。いわゆる一般的な不謹慎さとは、遠い場所から見知らぬ他人の死を軽んじる態度から発するものであった。だが吉田の笑いは、むしろ近づきすぎてその死の重さに押し潰されんとする自分を防御する意味合いを含んでいた。

 

 

 6

 

 

 以来、吉田は人の死の隣に笑いを持ってくるということを積極的に意識するようになった。現場で意識的に笑ったり、遺体の捜索現場での出来事を面白おかしく周囲の関係者に話すことも多くなった。現場に携わる警察官や港湾関係者も自分と同じように遺体に対する恐怖が少なからずあるはずだと考えていたからだ。

 吉田がそのようにして周囲におもしろおかしく話していた捜索の話の中には、「ミニスカートの話」や「伸びたおばあさんの話」というのがあった。吉田はことあるごとにそれを話し関係者と一緒になってよく笑ったものだった。

 「ミニスカートの話」はこんな話だった。ある時若いカップルが間違って車ごと海に落ちてしまった。車はサンルーフがついたシルビアだった。その現場を友達が見ていて通報し、警察から吉田に声がかかった。

 潜ってみると男性は車の中からすぐに見つかった。女性はロングブーツにミニスカートを履いた美人で、なぜかシルビアの後部座席にいた。亡くなっているとはいえ、吉田は女性に対して気を遣わなければならないと考えた。慎重に遺体を動かそうとしたが、ロングブーツと一緒に誤ってヒモのようなものを引っ張ってしまった。それは女性がつけていた下着のヒモで、吉田が動かした拍子に下着が全部取れてしまった。

 遺体のミニスカートが緩やかな水流によってペラペラとめくれているのを見て、なぜか悪いことをしているような気がした。直さなければいけないと思ったが、再び下着をつけようとしてもドライスーツの手袋が邪魔でちょうちょ結びができなかった。

 仕方なく解けたヒモを適当に結びなおしてそのまま女性を引き揚げることにした。だが水面にあげた瞬間に水の勢いで下着ががぼがぼと脱げてしまった。岸壁にいた婦人警官に「あっ、ちゃんと隠したままあげて下さい」と言われたが、吉田は「できるわけないじゃないですか」と内心思った。遺体に毛布をかけはしたものの、婦人警官に「吉田さん、これ、最初からこういう状態だったの?」と訝られた。吉田はしどろもどろになって「すみません」と応えるのがやっとだった…。

 「伸びたおばあさんの話」も吉田がよく人に語る話だった。それは息子とおじいさんとおばあさんの三人家族が海に落ちてしまったときのことだった。そのとき吉田は義理の弟にあたるダイバーと一緒に潜っていた。吉田が息子の男性を引き揚げ、義理の弟がおじいさんを引き揚げ、つつがなく最初の二人を終えた。そして辺りが暗くなって来た夕暮れどき、最後のおばあさんを引き揚げる作業に取りかかった。

 義理の弟が最初に潜り、吉田も後から続いて潜った。海中はうっすらと濁っており、夕方になったこともあって視界が悪くなりつつあった。手探りで後部座席のおばあさんの足を掴み、引っ張った。しかしおばあさんはなぜか出てこなかった。

 「あれ、なかなか出てこねえな。出たくねえのかな?」

 仕方なく吉田は態勢を変え、ドアの両脇に足を固定して両手で思い切り引っ張った。やがてぐいぐいやっているうちに、濁っていた水がきれいになり、視界が晴れてきた。すると義理の弟も反対側からおばあさんの腕を持って、吉田とまったく同じく体勢で踏ん張っていた。おばあさんは腕と足をそれぞれ反対側に引っ張られ、ぴんと伸びてしまっていた。

 「おばあさん、伸びちゃって。おまえ、引っ張るなよ」

 「吉田さんだって引っ張ったじゃないですか」

 「いやあ、まずかったなあ」

 

 吉田が現場に持ち込んだ笑いは端から見れば不謹慎に違いなかった。ただ、中には一緒になって笑う人もあった。むしろ笑いがタブーであればあるほど、現場の仲間うちに一体感をもたらすような空気さえあった。一緒に笑っていた仲間がなぜ笑っていたのか、吉田にも本当のところはわからなかった。吉田が考えるように人の死を日常的に扱う人々の防衛本能であったかもしれないし、ただ単に感覚が麻痺して知らぬ間に他者の死を軽んじるに至ったのかもしれなかった。あるいはそのどちらもあったかもしれない。いずれにしても次々に引き揚げを行わなければならない吉田にとって、笑いは正常な心の機能を保つために必要なものと思い始めていた。

 

 こうして笑いを積極的に取り入れることで、吉田はかつて身構えるような恐怖感を抱いていた遺体との距離感を、うまくつかむことができるようになりつつあった。それは遺体のある風景を自然なものとして受け入れることができるようになっていったと言い換えることができるかもしれない。

 岸壁で遺体の搬送車両の到着を待つあいだ、港湾事務所の担当者にコンビニ弁当や牛丼を買ってきてもらい、遺体を見守りながらそれをかき込む。あるいは遺体の横で朝がやってくるまであいだ、しばしの眠りにつく。そんなことにも徐々に慣れていった。

 

 慣れる、という意味では引き上げ現場のチームワークも良くなりつつあった。現場ではいつも警察、消防、海上保安部の面々が集まって協力しあってはいたが、もともとは誰が何を担当するかというのは曖昧なものでしかなかった。みんなでどうにかこの事案を解決しましょうという程度だった。しかし現場を重ねるうち、いつしかそこに流れのようなものが出来つつあった。

 消防が現場を照らす投光器を提供し、保安庁はダイバーの負担を減らすために小型の船を出してセンサーを使って海上から車の位置を特定してブイを落とす。吉田が潜って遺体を引き上げ、沈んだ車の適切な位置にワイヤーをかける。ワイヤーを引き上げる重機のオペレーションは、吉田と同じく民間業者であった佐藤産業の熟練操縦士が担当した。そして引き上げられた車を警察が確認し、事件性の有無を判断する。

 繰り返しの中で自然と確立された流れだったが、それはまたこの時期にいかに自殺の案件が集中していたかを示してもいた。

 

 

 7

 

 

 笑いを取り入れ、捜索作業との距離感を適正に保つことができるようになった頃、吉田は潜水士としては既にそれなりの数の引き揚げ経験を積んでいた。県の警察界隈でも名を知られるようになり、次々と依頼も増えていった。

 宮城県内でも行方不明者の捜索と引き揚げができるダイバーは吉田の他にも数人いたが、二十四時間動けるダイバーはその中でも限られていたこともそれを手伝った。他の潜水会社では経験豊富なダイバーは重役、専務となって現場には出ないことが多かったが、吉田は会社を経営しながら自ら現場に出ていたため、警察としても頼みやすかったということもあったかもしれない。

 

 警察にもダイバー隊があったが、単純な潜水の技量にしても遺体の引き上げの経験にしても吉田はそのダイバー隊たちを凌駕していくようになった。そうした特殊性を見込まれたためか、吉田は密かに警察のメンツを立てるような役回りに回ることもあった。

 ある時こんなことがあった。それは仙台港中野埠頭での出来事だった。人が海に落ちたとの通報があり、吉田は警察の機動隊のダイバー三人と一緒に潜ることになった。そこまではよくあることだったが、この時いつもと違っていたのは、岸壁にマスコミが来ていたことだった。

 通常、捜索現場は機密性の高いものだが、稀にどういうわけか現場を嗅ぎつけて彼らがやってくることがある。警察の無線のやり取りにしてもデジタルで暗号化されており、通常は外部に漏れることはないため、おそらくはアナログ無線を使っている消防のやり取りを聞きつけてか、あるいは単純にサイレンの音を聞きつけてだったかもしれない。

 いずれにしても、この時もそんな彼らが岸壁でカメラを回し始めた。捜索風景を何かの番組に使うのか、まさにレポートのようなことをしようとしていた。

 

 吉田たちはそんな彼らを尻目に捜索を開始した。現場にはいつものようにあらかじめ音波探知機をかけて沈んだ車の位置が特定されており、そのうえにブイを浮かせてあった。警察ダイバーは三人のうち一番腕のいいダイバー以外の二人を水面のあたりに残し、残りの一人と吉田が一緒に潜ることになった。水面に残った二人というのは、どうやら入隊して日が浅く、捜索経験に乏しいようだった。

 だが潜水を開始し、水面下三メートルくらいのところまで潜ると、ふと腕のいい警察ダイバーが途中で潜るのをやめた。見ると顔の前で軽く手を振っている。

 「すいません。私、行けない」

 そんなジェスチャーだった。さらに「ここで待っていていいか」という合図を加えてくる。嫌な作業だからなるべくやりたくないのだろう。それも水面で言えばいいものを、部下たちがいる手前、やはり言い出せなかったのだろう。

 「いいですよ」

 吉田は合図をすると、警察ダイバーを水深三メートルの場所で待たせて一人潜っていった。そしていつものように車から遺体を引き揚げると、水深三メートルのところで待機している警察ダイバーに遺体を渡した。警察ダイバーは残り三メートルを遺体とともに浮上し、水面で待っていた仲間と遺体を岸壁に上げた。警察ダイバーは岸壁で待っていたテレビクルーの取材に、あたかも自分が引き上げたかのようにふるまっているようだった。一方で吉田はカメラのフレームから外れたところで残った車を黙々と引き揚げた。そして全てが片付いた後、機動隊の隊員が申し訳なさそう挨拶に来た。

 「吉田さん、今日はありがとうございました」

 吉田は自分が警察から頼られながらも、影に徹することを求められているのだとわかった。警察機構という大きな組織のメンツのことを考えれば、テレビカメラの前ではいたしかたないところではあった。遺体を抱きかかえるという作業を好んで行う者など、たとえ使命感に溢れる警察官であっても、そうそういるものでもない。そんなダイバー隊たちから一目置かれ、現場で頼られれば吉田としても悪い気はしなかった。

 

 それに吉田にはできれば経験の少ないダイバーと潜るのは避けたいな、という本音もあった。というのも経験の少ないダイバーはどうしても水中での無駄な動きが多くなってしまうからだった。

 潜水を覚えたてのダイバーは、基本的にはヘッドファーストといって、足ヒレを動かした時の推進力を利用して頭から潜っていく方法を覚える。しかし、この方法だと足ヒレをばたつかせなければならないため、どうしても海底の砂や泥を巻き上げ、少なくとも数分間は視界が悪くなってしまう。それは水中での作業効率が落ちることを意味していた。

 だが潜水の経験を積んでいくと別の方法を習得することができた。足ヒレの動きではなく、潜水服の内部の空気量をバルブで調節し、浮力をコントロールすることによって水中での潜行と浮上が可能になる。これによってあたかもスカイダイバーが空を降りていくように、静止体勢を保ったまま深度を調節できるようになる。クリアな視界を確保しつつ、無駄な酸素も使わずに済むというわけだった。

 

 頼られるという意味では行方不明者の捜索だけではなかった。時には犯罪捜査の遺留品捜索を引き受けることもあった。ある時、少年たちが仲間の女の子を使って援助交際を装い、市役所員の男性を殺してしまうという痛ましい事件が起きた。女の子に呼び出された男性が駐車場に行くと、そこに少年たちが現れ、男性をぼこぼこに殴って殺してしまったのだ。そして金を盗んだうえ、返り血のついた服や帽子を袋に入れて沼に投げた。証言に基づいて警察がその沼で三日ほど捜索したが見つからなかった。依頼されて代わりに潜り、見つけたのが吉田だった。

 あるいは海上保安部に協力して、大掛かりな人命救助に携わったこともあった。ある年の元日のことだった。発達した低気圧が接近する中、乗客百九十人以上を乗せた大きな観光船が鮎川から金華山に向けて出発した。初日の出を見るためのフェリーツアーだった。しかしフェリーは程なくして強風に流され、湾内の養殖筏に乗り上げた。スクリューがロープにからんで動かなくなってしまったのだ。海上は大しけで波の高さは三メートルから四メートルに達していた。当初警察と海上保安部と別の潜水会社の潜水士が現場には入り、船の救出を試みていた。だがどうしてもダメだということで吉田のところに話しが回ってきた。

 吉田は現場に着くとスクリューに絡まったロープを切ってくれと言われた。だがいろいろと試してみてもそれはできなかった。その筏のロープは特殊な材質で、鋼鉄のワイヤーをプラスチックでコーティングしたものだった。刃物ではもちろん、電気で金属を溶解させる水中切断という手法でも周りのプラスチックが邪魔して切れなかった。

 強力な油圧カッターがあればなんとかなったが、現場にはそれもなかった。いろいろと試みている間も、船が大きく揺れて作業は困難を極めた。するうちに乗客たちは船酔いから具合が悪くなり、嘔吐する人も続出し始めた。

 吉田は作業船に乗客を載せ替えて順番に陸まで輸送しようと提案した。船が多少壊れてもいいから、ロープで船同士をぎっちりと固定して、もし人が海に落ちてもすぐに救助ができるように、ダイバー二人を前後につけて載せ替えればできるだろうと強く進言した。船や筏が壊れても最悪そのままにしておいても構わない。だが人間の安全はいち早く確保しなければならない。そう考えたのだ。

 本来ならばそうした現場の方針については吉田が判断することではなかった。現場の指揮の権限は海上保安部にあり、その保安部が現場と対策本部との間でやり取りをした後に方針が決定され、それが現場で実行されるという流れだった。だが吉田としては、一刻を争う時に現場から遠く離れた本部にいちいち指示を仰いでなどいられない、という気持ちだった。

 保安部は対策本部の指示を仰ぐので待ってくださいと言ったが、血気盛んな吉田はいつものように食ってかかった。

 「いちいち本部になんか聞いてられるか」

 程なくして吉田の提案通りになった。筏に乗り上げた船に、別の船を横付けし、油圧式ウィンチでぎっちりと絞り、船同士を連結させた。海上保安部の隊員と一緒に乗客をひとり一人別の船に移していった。高い波に持ち上げられるたびにフェリーのプロペラが見えるほどの激しい揺れだったが、女性と子供を優先させて、三十六人を陸に戻すことができた。吉田が到着する前は乗客を別の船に移そうという発想は誰も持っていなかった。吉田はこの時の功績を讃えられ、後に海上保安部から表彰を受けることとなった。

 

 

 8

 

 

 引き上げや捜索の案件を引き受け続けていくうちに、吉田はあることを確信するようになった。それは自分には海中で何かを探す特別な能力があるのではないかということだった。経験を積むにつれ、もちろん現場での状況判断にも磨きがかかっていった。だがそうした経験則では説明できない何かが自分には備わっているのではないかと感じることもあった。

 ある時、仙台南署に呼ばれて殺人事件の捜査協力を依頼されたことがあった。強盗殺人事件が起き、港湾事務所員と宮城県警の暴力団対策課が事件解決に向けて動いていた。本来ならば極秘であるはずの捜査情報が、吉田にも一部明かされた。

 「実は一年前に逮捕された容疑者が自白しましてね。その容疑者は男性を殺害してコンクリートブロックをつけ、被害者を海に落としたと言うのです。できれば捜索してほしいのです」

 すでに機動隊が水中捜索を始めてから数日が経っていたが、成果は上っていなかった。犯人の証言をもとに被害者の遺体が遺棄されたとされる場所を探したが、犯行時間帯が夜で視界がきかなかったこともあり、証言そのものが曖昧になっている可能性もあったとのことだった。

 

 吉田は警察から容疑者の証言内容を詳しく聞くうちに、ふとあることを思い出した。それは半年くらい前に護岸工事の作業をしていた時のことだった。岸壁に設置するぶ厚いゴムの防舷材を取り付けようとして、誤ってナットを海中に落としたことがあった。そのナットを取りに海中へ潜っていったときに、海底にロープが巻かれたコンクリートブロックが落ちていたのを覚えていたのだ。それはちょっと不思議な光景だった。そのブロックというのは住宅の塀などによく使われている、真ん中に三つの穴があいたごく普通のコンクリートブロックではあったが、壊れているわけでもなく、捨てる理由も見当たらない。穴に通してあるロープは海中作業で使われる三分、四分といった太めのものではなく、海中作業ではまず使われることのない、二分以下、つまり六ミリから八ミリ程度の細身のものだった。

 港湾の海底には冷蔵庫や自転車など、不法投棄されたものがたくさん落ちている。そのため、たいていのものは落ちていても気にならない。だがそのブロックに関しては、誰がどんな理由でロープを巻きつけて捨てたのか不思議に思って覚えていたのだ。

 そのことを話すとにわかに警官たちがざわめいた。「どこだどこだ」と騒ぎになり、やがて今からすぐに潜ってくれという話しになった。

 記憶を頼りに仙台港中野一号埠頭のあたりを潜ってみると、十五分ほどでブロックを見つけた。引き上げてみると、四つのコンクリートブロックに人間の下半身がくくりつけられていた。警察は「他に手がかりはないか」、「頭を探してくれ」と言った。

 

 そこで吉田は水中スクーターを使い、防波堤の付け根をフェリー埠頭に向けて西側に進んでいった。西側に進んでいった理由は、貨物船が離岸の際に西側に向かって水流を噴射するため、軽いものであれば犯行から一年あまりの間に西側に流されている可能性があったからだった。

 捜索を始めると、証言の地点から百メートルほど西側に離れたあたりの海底で、何やらひらひらと漂っているオレンジ色の布が見えた。近づいて手に取ってみると、内布がオレンジ色をしたパイロットジャンパーだった。よく見ると袖口がガムテープでぐるぐる巻きにされている。いかにも不自然だった。

 回収して陸に上げ、ガムテープをほどいてみると、今度は手の骨が出てきた。亡くなった人の骨だった。作業を終えて岸壁に上がると警察官たちが捜査の進展に沸いていた。遺体が見つからないと告訴ができないため、これでやっと告訴できる。吉田も少なくない賞賛を受けた。

 「これほどとは思わなかった」

 「プロというよりも、このために生まれてきた人ですね」

 

 いつも一人で引き上げの作業に当たることが多い吉田は、この時警察の賞賛を目の当たりにして、自分の技量がどんなものか改めて認識することになった。たまたま以前の作業中に不思議なブロックを見たことがあったために素早く発見できた、という意味では運が良かったといえるかもしれない。だが警察は吉田の記憶力、捜査のスピード、そして何よりも判断の的確さを評価した。これにより県警に吉田の名前が広く知れ渡るきっかけになり、後にダイバー隊の教官になって県警のダイバーを教えて欲しいとも言われた。

 

 吉田にとってもこの件は印象深い出来事になったが、それは警察に賞賛を受けた、という以外のところにも理由があった。いったいなぜ自分が数ある海底のゴミの中から、たまたまそのジャンパーを手に取ったのだろうか。そのとき海底には靴、帽子、ゴミ、本、箱などあらゆるものが散乱していた。ひとつひとつ見ていくにはあまりにも時間がかかる、というくらい多かった。実際、警察に「他に手がかりはないか」と聞かれても、数ある中からいったいどういったものが手がかりになるのか見当もつかないでいた。

 そんな中、吉田は赤茶けた小さな布切れが海底から十センチほどふわふわと漂っているのをたまたま見つけたに過ぎなかった。吉田が不自然さを感じたのは、手にとったジャンパーがガムテープでぐるぐる巻きにされていることが分かった時点であり、手に取る直前までは違和感や事件性を感じたとか、おかしな印象を抱いたということもなかった。直感的に何かを感じるということさえなかった。

 むしろその前にコンクリートブロックを引き上げた時点で、ひと仕事終えたような気分でいた。本当にたまたま、そのふわふわした布切れを引き上げてみた、というだけのことだったのだ。

 思い返すほどに不思議だったが、吉田にはその「何も感じなかった」という点にこそ、むしろ自分の特殊性があるように思えた。コンクリートブロックを見つけた時のように、記憶力や洞察力を鋭く働かせたわけではなかった。では、何が自分をそこへと導いたのか。

 それは自分の能力を超えた説明のつかない何か、としか言いようがなかった。拾い上げるべきものを期せずして引き寄せていたのではないか。そんなふうに考えるにつれ、吉田は引き上げが自分の天職であると感じるようになっていった。

 

 

 

 

 9

 

 

 吉田の捜索方針は極めて現実的だった。ひとたび海に人が落ちると、現場に赴いて細かなデータを収集するところから全てが始まった。現場の海水温、沿岸部の潮流、潮の干満の時間帯、不明者が最後に食べた食べ物の内容や時間、着ていた服の重さなどだった。吉田にとってそれらは遺体の位置を示す根拠や捜索方針の根拠となる貴重な情報だった。

 遺体を引き上げるうえでまず吉田が考えるのが、遺体が浮かび上がってくるかどうかということであり、浮かび上がってくるとすればそれはいつ頃かということだった。季節が夏の場合は遺体の腐敗が早く、胃の中にガスが溜まり、遺体を浮かび上がらせる浮き袋の役割を果たす。そのため、腐敗の進行が進む七日くらいの間に水面に上がってくるだろうと予測を立てることができた。逆に冬の場合は腐敗が進みにくく、ガスが発生しにくいため、上がってくる可能性は夏場よりも低くなる。これらのことから夏であれば陸上からの目視を中心に捜索方針を組むことができるが、季節が冬であれば、水中の捜索作業をより丹念に行わなければならないことになる。春や秋であればその中間を取れば良いが、海水温の変化は陸上の季節の循環よりもひと月ほど遅れてやってくるため、それも考慮しなければならない。

 食事の状況も重要な要素だった。行方不明者が海に落ちる直前に食事を摂っていれば、胃の中に食べ物が残り、やがてこれが腐敗してガスを発生させる。これも同じく浮き袋の役割を果たすため、遺体が浮かんでくるかどうかの検討材料となる。

 また遺体が浮かび上がってくるかどうかは、自殺なのか事故なのかによっても大きく変わった。自殺をした者は覚悟を決めて自ら水に飛び込んだため、あまり海水を飲むことはない。一方、誤って海に落ち、不慮の事故で溺れて死んだ人は、直前まで生き延びようと必死にもがいた末に肺に大量の水が入ることになる。大量の水が肺に入れば浮かびにくく、肺に空気が残っていれば浮かびやすい。その結果、溺れた人間は浮かび上がる確率が低く、逆に自ら死のうと思って入水した者は浮かび上がってくる可能性が高いという一般論が導き出された。

 実際のところ、吉田の捜索経験の中でも、長いあいだ浮かび上がって来なかった遺体は、誤って海に落ち、溺れて水をしたたかに飲んだ遺体がほとんどだった。

 洋服も重要な手掛かりだった。薄手の服や体に密着したシャツのようなものを着ていれば、そのまま上がってくる可能性が高いし、厚手のコートなどを着ていれば、海底の瓦礫やゴミに引っかかって上がってこない可能性があった。

 遺体の上がる位置や時間帯を考えるうえでは、潮の満ち引きも重要な要素だった。潮汐表を見て、満潮から引き潮に変わる時間帯を調べ、潮流が沖へと向かう時間帯に遺体がテトラポットなどに引っかかる可能性が高いだろうと考えられた。その時間帯になれば実際に現場でペットボトルを流して潮の流れを追い、その先に遺体があるかもしれない、という予測を立てることも多かった。

 その他にも防波堤が新しく増設されれば、沿岸部の海流が微妙に変わり、遺体の流れる方向にも影響を与えるし、現場が川の場合は流速や川の深さが重要な手がかりとなった。低気圧が来れば雨が降り、川が増水し、流れが速くなることもある。現場流域に雨が降らなくても、上流に降っていれば、それだけで流速が変わってくる。それらはみな重要な検討材料だった。

 吉田はこうした捜索方針を誰に教わるわけでもなく、自分で打ち立てた。現場ごとの記録を細かくノートに残し、次の捜索に必要なデータを蓄積していった。ただ闇雲に潜っても見つからないという考えが吉田の捜索の方針の根本にあった。小さな根拠を積み上げ、少しでも可能性の高い場所を探る。だからこそ警察がさじを投げた現場でも行方不明者を見つけ続けてきたのだという自負を持っていた。

 

 捜索の現場には、警察の他に行方不明者の家族や親戚などが多数おり、色々な人が吉田の捜索に横槍を入れてくることもあったが、当然、吉田は根拠に基づかない捜索方針を嫌った。よく捜索方針に割って入ってくるのは、どちらかというと行方不明者家族よりも、なぜかその親戚が多かった。例えば川のよどみの部分を指して、ここにいるのではないかと言ってきたりした。しかし吉田としても自分なりの経験と根拠に基づいた方針があった。そのため意見の食い違いが生じることが多く、吉田はそうした声を好まなかった。

 

 とりわけ吉田が「拝み屋」と呼んでいた人々とはよく言い争いになったものだった。「拝み屋」とはお祓いや占いをする人たちのことだった。家族が無事に見つかるようにとの願いを込めて、その時々によって様々な種類の人々がやってきた。あるときは白装束を着た人が白いふさふさのついた棒を持ってお祓いをしたり、またある時は五円玉のようなものに糸を通して占いを始めたということもあった。また中南米の民族衣装のような服を着た女性が皮のペンダントを持って夢のお告げを言いに来たということもあった。

 吉田が捜索に当たっている間、彼らが遺族のために祈っているだけならば、それはそれでよかった。少なくとも遺族にとっての心の拠り所か、あるいは気休めにはなるだろうと考えたからだ。

 しかし、その「拝み屋」たちが吉田の捜索方針に指示を出してくることも少なくなかった。港湾内のどのあたりに沈んでいる、ということをかなり具体的に示してくるのだ。吉田はそれが嫌だった。彼らはたいがい吉田の考えている場所とまったく違った場所を指し示したからだった。

 あるときこんなことがあった。現場にやってきた霊能者が水晶玉をのぞき込んで言った。

 「あのあたりにいます。反対側の方で立ち上がって、こっちに向かって手を振っています。お父さん、お母さん、私はここにいます、と言っています」

 吉田としては、その場所はあり得ないと思った。岸壁に設けられた黒と黄色の車止めに残っていたタイヤの跡から、霊能者が言う方向とは別の場所に車が沈んでいると考えていたからだ。

 だが水晶玉の霊能者は「こっちです」と断定した。しかもそれを直接吉田に言うのではなく、遺族を介して伝えてくるものだから、吉田としては困ってしまった。「いやあ、そっちはないと思いますよ」とやんわりと言ったが、「絶対こっちです」と相手は主張を曲げなかった。

 やがて吉田と霊能者の直接の言い合いになった。吉田はムキになり、「おめえ、うっせえからすっこんでろ」と、水晶玉を掴んで海に投げ込んだ。

 「ああ、私の水晶玉…」

 狼狽する占い師を尻目に吉田は海に飛び込み、やがて自分が予想した方角のやや沖の方から車と行方不明者を見つけ出した。遺体を抱えて海面に浮上し、岸壁に戻ると霊能者は言った。

 「あなたが水晶玉を投げたから、車が別の場所に移動したのです」

 だが吉田にしてみれば、それは苦し紛れの言い訳に過ぎなかった。それから吉田は若い潜水士に水晶玉を取りに潜らせ、泥だらけになった水晶玉を手渡すと、霊能者は言った。

 「あなたは地獄か餓鬼界に落ちますよ」

 吉田はうんざりして、地獄でもどこでも落としてくれ、とやりかえした。

 

 またあるときは、袈裟をつけた山伏と取っ組み合いの喧嘩になったこともあった。遺族に頼まれて港に着くと、山伏は車から降りるなり「法力を使って沈んでいる場所を探します」と言った。うーんとうなり声をあげたり、棒を振り回したりし始め、やがてある方向を向いて両手を広げ、「この両手の角度の間にいますので捜索してください」と言った。

 だが、その腕の開きの角度には八十度くらいの広さがあり、岸壁から見える海面のほぼ半分近くを指していた。捜索範囲の限定としては曖昧すぎてほとんど何の手がかりにもならなかった。加えてその指し示した方角もまた、吉田の予想とはまるきり違った。吉田はあきれてものも言えなかった。

 それだけならばまだ良かったが、山伏は捜索の作業の前に吉田にも祈祷をさせて欲しいと言った。聞けば吉田の邪気を払うのだと言い、またうーん、とうなり始めた。吉田は仕方なくお祓いされるのを待っていたが、内心は早く捜索を始めたかった。

 「もういいすか?」

 「いや、後ろを向いて下さい。」

 「まだ?」

 「まだです。」

 やがてしびれを切らした吉田は「あのな、おめえも一緒に潜るか、この」とつかみかかった。

「暴力はやめて下さい、あなたのためにやっているんです。」

 つかみ合いになった拍子に、吉田は山伏のおでこについている六角形の飾りを引っ張った。すると意外にもその飾りのひもはゴムでできており、離すとぱちっと山伏のおでこに当たった。なんだゴムなのか、と吉田は拍子抜けし、なんとなく喧嘩はそこで終わった。

 

 川で行方不明者が出た時も、「夢見の人」が現場に現れた。激流の川原を指して「ここにいます。潜ってください」と言ってきた。しかし吉田としてはそんなところにいるはずはないと思った。激流の下に遺体が動かないまま沈んでいる可能性は極めて低いと言えた。すでに行方不明から十一日が過ぎているのだから、吉田の考えでは十キロほど下流に流されているはずだった。

 「あのな、ペットボトルを落として、そのまま沈んだら潜ってやる。いいか?」

 そう言って吉田が水を半分くらい入れたペットボトルを水に落とすと、すごい勢いで下流へと流れていった。それは遺体にも同様に流れの力が加わり、下流へと押し流されているだろうことを意味していた。結局遺体は吉田の目測の範囲の、十一キロ下流で見つかった。

 「あの野郎、あんなんで三万七千円も取りやがって」

 吉田は内心毒づいた。

 吉田はそんなふうによく彼らと喧嘩をしたが、それは彼らの指した場所が吉田の考えと大きく違っていただけでなく、吉田がそれまで培ってきた経験や技術に基づく現実的な捜索の方法論をまったく無視しているように思えたからだった。吉田からすればそれらは神頼みというよりも出鱈目近い印象を受けた。

 

 ただ、まったく論理的な根拠に基づかない提案であっても、吉田が考慮に入れるものが一つだけあった。それはいわゆる「虫の知らせ」というやつだった。行方不明者家族が夢の中で行方不明者と会い、その夢を根拠に「ここだと思うんです」と証言するのだ。そこには「拝み屋」たちの出鱈目さとはちがった、不思議な説得力があった。

 ある時女性が車ごと岸壁から落ちて自ら命を絶ったことがあった。岸壁に車のタイヤの跡があったため、吉田は午前中にその付近を捜索した。タイヤの跡の方向と車の入水するスピード、それに水深十三メートルという深さを考慮して、岸壁から十メートルほど離れたある地点を中心に円を徐々に拡大させるかたちで捜索をした。それは円形捜索方と呼ばれる方法で、円の真ん中の海底に杭を打ち、そこからロープを張って、三メートル、五メートル、七メートル、十メートルと少しずつ半径を広げていく方法だった。だが、ひとしきり捜索を終えても見つからなかった。

 岸壁に上がると、母親がまったく別の箇所を指して「実は昨日娘が夢に出てきて岸壁立っていたんです」と言った。前日も捜索に来ていた母親は岸壁の景色がそのまま夢に出てきたと証言した。そして岸壁の上の係船柱を指して「だいたいこの辺りだったんです」と言った。

 吉田は半信半疑ながら潜ることにした。行方不明者家族が言うなら潜って探してみようと思った。その方が例え見つからなくても、家族は納得するだろうと思ったからだった。気持ちの上で納得してもらうことも吉田の役割だった。

 だが潜ってみると、結果として母親が指した場所から車と女性が見つかった。不思議だった。それは吉田の経験からすると、どうしてもありえない場所だった。運河の河口が近くにあったにせよ、ほとんど流れの影響は考えられなかった。しかも、車は水中で岸壁に立てかけられたような不思議な格好で見つかっていた。どうして車が吉田の予想から四十メートルも離れた場所で奇妙な格好になっていたのか、どうにも説明がつかなかった。

 

 またある時も、岸壁から車が「ゆっくりとしたスピードで海に落ちた」という目撃証言があり、同じように岸壁から十五メートルを起点として円形捜索方を試みたが、三日間ものあいだ見つからなかったことがあった。目撃証言を洗い直したりしたが結果は同じことでしかなかった。

 ところが三日目に父親が「夢に息子が出てきて沖の方の水面に立っていたんです」と言った。沖の方と言われても、目撃証言によれば「ゆっくりと落ちた」という話で、それほど遠くいるということはどうしても考えにくかった。しかし、一晩考えて、次の日に思い切って初日に捜索した地点の延長上の沖の方を探してみた。すると岸壁から八十メートルくらい沖の海域で車と男性が見つかった。岸壁から八十メートルといえば時速百キロ以上で飛び込まなければ届かないような距離であり、「ゆっくりとしたスピードで落ちた」という証言からはどうしても説明がつかなかった。

 いずれにしてもこれらのケースには、遺体がなぜか通常では考えにくい場所から見つかった不可解さに加え、亡くなった人が家族の夢の中に出てきて場所を教えたという不思議さが共通していた。そして自分がどうしても見つけられないでいた場所を遺族が夢の中で言い当ててしまうことが続くと、いわゆる「虫の報せ」の存在は吉田の中で偶然として片付けることのできないものとなっていった。人間には未だ科学で解明されていない何らかの力が備わっていて、死の間際に何らかのかたちで親しい人へメッセージのようなものを発するのかもしれないとも思った。

 非科学的という意味では、遺族の虫の知らせも「拝み屋」たちの占いも同じではあったが、吉田の中では大きな違いがあった。当たる、当たらないということ以上に、遺族の夢には生前の記憶や愛情などが複雑に混じり合ったかけがえのなさがあるにちがいなかった。その思いが吉田たちを見えない場所へ誘うということは不思議なことではあったが、どこかでありえるかもしれないと思っていた。

 

 

 10

 

 

 吉田の経験値は突出したものになりつつあった。普段の潜水土木の現場に加え、様々な引き上げの現場を経験することで長らく潜水士としての技量を磨き込んできた。警察や保安庁といった沿岸部を管轄する担当者のあいだに名前を知られるようになり、吉田自身も応えられない依頼はなくなってきているのではないか、という自負を持ちつつもあった。

 とはいえ、潜水の現場において吉田を悩ませるものもいくつかあった。その一つが潜水病だった。潜水病は身体の周囲の水圧が急激に減少することで血液中の窒素が気化し、気泡となって血流を悪くする疾病で、吉田だけでなく、多くの職業ダイバーにとって宿痾のようなものだった。

 その仕組みは概ね以下のようなものだった。水中では浅い海面付近は水圧が低く、深い場所では水圧が高い。この水圧の差はダイバーの血液中の窒素の飽和量の差を生み出すことになる。深いところでは血液中にたくさんの窒素が溶け、浅いところではより少ない量の窒素しか溶けない。

 そのため、深い場所から海面に向かって急激に上昇すると体にかかる水圧が急激に下がり、血液中の窒素が飽和して、血中に気泡となって生じる。これが人体にさまざまな症状を引き起こす。あるいは比較的浅い場所での潜水であっても、長時間や繰り返し潜水を行うことでも同じことが起きる。

 体に現れる症状としては症状の軽い順番にかゆみ、痛み、しびれなどがある。重度の場合、あるいは長年潜水病を繰り返した場合は骨密度が下がり、骨がもろくなって削れてしまうこともある。このような危険を避けるため、潜水士は国家試験を取得する際に、定められた表に従って人体に影響の少ない潜水深度や潜水時間の範囲内で活動するように訓練を受ける。あくまでも目安ではあったが、例えば水深が十メートル程度の深さであれば一日に8時間までの作業が認められる、といった具合だった。

 潜水病を防ぐために一般的に用いられる方法に、減圧と呼ばれるものがある。深い場所から上昇する際の急激な変化を避けるためにゆっくりと浮上する、というのがその基本的な考え方だった。ただこれも漠然とゆっくり上がれば良いというものではなく、人体と水圧の関係に基づいて法令が細かく定められ、それに基づいて作業することが求められる。

 例えば深度二十メートルの場所で百五十分の潜水を行った場合、一分間に十メートル以下のゆっくりとした速さで浮上した後、深度六メートルの場所で二十五分以上滞在し、さらに深度三メートルの場所で三十九分の滞在をしてから海面に浮上しなければならない、という具合だった。

 この深度六メートルや三メートルの浅い海域で比較的長時間を過ごすということが減圧行程の特徴で、これによって水圧差による生理的な変化をゆっくりとしたものにすることが、安全上、極めて重要であった。

 とはいえ、潜水士は職業柄、一日の間に海底と水面を何度も往復し、それを年中繰り返しているため、規則を守っていても大なり小なり潜水病にかかってしまう。あるいは土木を専門とする潜水士たちは、定められた潜水時間を無視して長時間作業にあたらざるを得ないこともあった。例えばトイレに上がるのが面倒だからといって潜水を続けたり、いまは身体の調子がいいから作業を続けようということもあった。あるいは工期が迫っているために潜水時間を長く取らざるを得ない時もあり、その意味では潜水士たちの体は日々蝕まれているといえた。

 

 吉田の周囲にも様々なかたちで潜水病を患った人がいた。吉田が潜水業を始めて十五年くらいした頃のことだった。まだ二十代前半の潜り始めて日の浅い潜水士が女川の海で筏のロープの張り替え作業のために潜っていた。三十メートルくらいの深さで作業をした後、上がってきたら気を失ってしまい、病院に搬送された。脳の中に気泡ができて、それが血液の流れを止めてしまっていたということだった。その人は運良く助かったが、あわやという危険な出来事だった。

 別の五十代の男性は福島での土木潜水作業中に水深二十五メートルくらいのところを潜って作業をしていた。特に長時間の作業を強いられていたわけでもなかったが、作業が終わり休憩時間にヘルメットを取ってタバコを一服したらそのまま気を失って倒れてしまった。急いで病院に搬送されたが、そのまま亡くなったとのことだった。

 他にも長年の慢性的な潜水病がたたり、肩の骨が溶けてしまってそこに鉄の棒を入れて骨の替わりにしているという人がいた。その人は、そのまま潜水の現場に出続けていた。かゆみが出るレベルの軽度の潜水病を年中繰り返している潜水士やダイバーの中には、骨密度が低くなって骨が脆くなり、骨が細かく削れていく者もいた。

 

 周囲の潜水士と同じく、三代続いた吉田の家でも、潜水病とは無縁ではなかった。まだ近代的な医学が潜水現場に持ち込まれる以前の、祖父熊治の時代は経験と勘で潜水時間を決めてしまうことも多かった。そのため、個人の裁量から無理な潜水を続け、のちに潜水病を患い、後遺症で車いす生活を余儀なくされたり、潜水業をやめざるを得ない人もいた。

 吉田の父、浩は若い頃に海産物を取る潜水作業に従事していたときに、二十メートルほどの深さでの作業を経験し、潜水病の症状が現れ、腕が上がらないほどの痛みだったという。

 吉田にしても、かゆみの出る軽度の潜水病は日常茶飯事だった。水深十メートルほどの深さの現場にひと月ほど出て毎日潜り続けていると、血液中に徐々に窒素が蓄積されていく。何日かすると、肌に赤い湿疹のようなものが出てきて痒くなる。そうしたことを何度も経験した。この段階ではまだ症状は軽いと言え、特に治療の必要はなく、潜ることをしばらくやめて安静にしていると元通りに治ることが多かった。

 だが吉田も一度だけ潜水病で危険な目に遭遇したことがあった。七ヶ浜沖で釣り船とタンカーが衝突して、釣り船が真っ二つに割れてしまうという事故があった時のことだった。釣り船の船長が行方不明になり、元請け業者に引き上げの依頼が来た。下請け業者だった吉田は、理不尽な力関係からか、潜水計画がままならないままにすぐに潜ってくれと依頼された。ワイヤーをスクリューに取り付け、もし遺体があれば引き揚げてくる、という作業内容自体は吉田にとって難しいものではなかったが、潜水計画がないというのは無茶苦茶な話だった。

 

 潜水計画とは現場の水深をもとにおおよその可能な潜水時間とインターバルの休憩時間を割り出し、ダイビングテーブルという工程表を事前に作成するものだった。それは基本的にはどんな潜水現場でも安全管理の一環として必要な作業であり、具体的には次のことを詳細に検討する必要があった。

 まず厚生労働省の定める減圧表によって、深度ごとの無減圧潜水限界時間、つまり減圧の必要のない潜水時間が定められている。この時間内での潜水であれば、単純に分速十メートルというスピードでの浮上が可能だが、もしこの時間を超えて潜水を行った場合、減圧過程を経る、つまり段階的に高度を上げながら数分間同じ高さにとどまり、少し高度を上げてはまた同じ高さにとどまるという過程を繰り返す必要がある。一度の潜水に対してこれらを検討せねばならず、さらに同じ深度への反復潜水をする場合には、より複雑な計算を必要とする。

 もし仮に必要な減圧をせずに浮上してしまった場合、すぐさま減圧室に入って減圧のための環境を人工的に作り出し、再度減圧のプロセスを踏む必要がある。これらを全て事前に計画することで、初めて安全な潜水現場の運営が可能となる。

 

 吉田が潜水病にかかった日、作業現場は水深四十メートル、普段ではほとんど潜らないような深い場所だった。基本的には深ければ深いほど水面付近との水圧差は大きくなり、同時にそれは減圧なしで潜水できる時間が短くなることを意味していた。

 四十メートル付近ではその傾向は極端になり、無減圧潜水ができる時間は潜行と浮上にそれぞれ必要な四分ずつを合わせても十五分であり、海底での実質作業時間は七分でしかなかった。

 このようなケースでは長時間の送気が可能なフーカー式潜水が用いられるのが一般的だった。いつまでも空気を送り続けることができるため、作業が長引いたとしてもゆっくりと時間をかけて減圧をしながら海面へ戻ってくることができるというわけだった。

 この時は吉田を含めて三人で潜ることになっていたが、あいにくこのフーカーの装備が二つしかなかった。そこで他の二人がフーカーを装備して先に潜り、吉田は陸上への指示を出してからスキューバ式で潜るということになった。スキューバ式は、背中に背負ったボンベの限られた空気量の中でしか作業ができない。

 やがて三人が海底で合流し、作業を開始した。だが三人はバラバラになった船体になかなかワイヤーをかけることができずに、苦戦を強いられることになった。するうちに、先に潜ったフーカー式の二人の潜水時間が制限に達し、一度水面に上がらなければならなくなった。

 二人が先に海面へ上がり、一人海底に残された時、吉田には二つの選択肢があった。一つ目の選択肢は一度海面に浮上し、陸上からの送気が可能なフーカー式潜水に切り替えるというものだった。この選択肢を取れば、実質的には時間を気にせずに作業を進めることができた。ただ一度浮上してしまうと再度潜水するまでに一時間以上のインターバルを置かなければならない。

 もう一つの選択肢は、スキューバ式のまま残りの残圧の中で何とか仕事を終え、減圧をしながら浮上して戻ってくるというものだった。ただこの選択肢のリスクは小さなものではなかった。残された時間内で作業が終わる保証はどこにもなかったし、仮に終わったとしてもその時点で残っている空気で十分な減圧時間を確保しながら浮上できるとは限らなかったからだった。作業が長引くほど体への負担も増し、減圧に必要な時間も増す。不確定な要素が多すぎた。

 だが吉田は考えた挙句、後者を選択した。元請け業者は減圧に関する知識に乏しく、ただ「早く潜って作業をしてくれ」という一点張りだった。陸上ではヘリコプターやクレーンが待機しており、吉田の作業完了を待っていた。下請け業者としての立場上やらざるをえなかった。吉田は「潜水病になるだろうな」と思いながらもやむなく作業を続けた。

 やがてダイブコンピューターの警報も鳴り始めた。ダイブコンピュータは水深や潜水時間の経過によって警報を鳴らしたり、体内ガス圧減少時間などを知らせる機器だった。警報が鳴ったら水面に上がらなければならなかったが、吉田はそれからさらに二十分以上も作業を続けた。結果、なんとか船のスクリューにワイヤーを取り付けることができ、引き上げの準備は整ったが、ボンベの空気は残り少なくなっていた。

 浮上する際、分速十メートルのゆっくりとしたスピードで上昇したものの、六メートルの場所で三分、三メートルで十分くらいしかとどまることができなかった。それは本来必要な減圧時間の半分に満たなかった。

 この時、もしフーカー式を装備していれば状況はだいぶ違ったものになった。有線で会話をすることができたため、海中から陸上に引き上げの指示を出すことができ、吉田は引き上げの邪魔にならないように少し離れた海中でゆっくりと減圧をしながら上がってくればよかった。だがスキューバの装備ではそれもできなかった。

 上がってきてから数分が経った頃、案の定、症状が出た。左半身の感覚がなくなっていったのだ。これはまずいなと思った吉田はすぐに病院に行った。だが病院には潜水病の専門医がいなかったこともあり、対応してもらえなかった。吉田は自ら車で病院に行ったため、緊急事案として扱ってくれなかったのだ。

 そこで港湾事務所に相談すると担当者がうまい手を打ってくれた。病院に再度連絡し「今、マスコミが追いかけてますけれども、ちゃんと対応しないと大変なことになりますよ」とけしかけたのだ。もちろんマスコミなど追いかけていなかったが、慌てた病院側は、「わかりました。今すぐ減圧室に入ってください」と手のひらを返した。

 減圧室で潜っていた深さと同じ圧力まで加圧して、そこから階段式にゆっくりと減圧をしてもらった。いわば、水深四十メートルの環境を再度人工的に作り出し、ゆっくりと上昇する過程を再現する。何かの後遺症が残るかもしれないと思った吉田だったが、この処置のおかげもあり、左半身の感覚は戻って来た。

 事なきを得た吉田だったが、その後の周囲の対応には納得がいかなかった。元請け業者は「誰が病気になれと言った?」と吉田を責めた。「うちは知らない」の一点張りだった。元請けにしてみればプロダイバーなのだから自己責任だということなのだろうが、本来なら安全管理の責任は元請け業者が負わなければならない。この苦い体験以来、吉田は安全管理を徹底しなければならないと肝に銘じることになった。

 

 

  11

 

 

 挫折を覚えるような体験もあった。

 行方不明者の引き上げの依頼は、後に仙台港での自殺者の数が減っていく二〇〇〇年代中頃まで続き、その間に吉田は合計で百九件の現場に赴くことになった。

 だがその中にたった一件だけ、現場に赴いたものの最終的に不明者を見つけることができないまま、現場を離れざるをえなかったことがあった。苦々しく、後味の悪い体験だった。引き上げの仕事に少なくない自負を抱き始めていた吉田にとって不本意な結果だったということももちろんあった。だが何よりも家族が見つからないということの着地点の見えなさ、救いのなさを垣間見ることになったからだった。

 

 その事故が起きたのは平成九年の夏のことで、行方不明になったのは閖上の海水浴場の防波堤から海に飛び込んで遊んでいた男子高校生だった。当時はまだ閖上の海辺には海水浴場がなく、松林に沿うように遊泳禁止の長い砂浜が続いているだけだった。

 その日、男子生徒は友達と数人で砂浜の一角の南防波堤から海に飛び込んで遊んでいた。ところが泳いでいるうちに姿が見えなくなってしまった。友達が通報し、通報を受けた警察が捜索したが見つからなかった。すぐに吉田のところに連絡が入り、「すみません、探してもらえませんか」と打診があった。吉田は昼夜を通して捜索にあたることになった。

 現場には男子生徒の父親が来ていた。父親はヨークベニマルの販売責任者で、仕事を休んで現場に来ていた。母親は膠原病という難病を患っていたため、現場に来ることができなかった。

 吉田は父親に方針を伝えた。まずは落水地点付近を波打ち際から捜索する。消防、警察がすでに砂浜を捜索していた。さらに沖に二隻の船を出して四名のダイバーを投入する。加えて空からヘリコプターで海面を目視する。

 すると父親も捜索に加わりたいと申し出た。よほど息子を見つけたいのだろうと、思いの強さが伝わってきた。それまでに多くの捜索現場に立ち会ってきたが、父親が自ら息子を探すということはそう多くはなかった。捜索の現場に様子を見に来る、というのが一般的な対応だった。閖上の砂浜には危険が少ないこともあり、父親も同行することになった。

 

 父親は勤務歳のスーパーマーケットから何日間か休みをもらい、波打ち際の捜索に加わった。吉田とともに長く続く浜辺をサンドバギーで移動し、降りては辺りをくまなく探す。息子の手がかりとなる持ち物や衣服だけでも落ちていないかと探し歩いた。

 捜索の合間に吉田は父親ににおいも手がかりの一つだと話した。夏の時期は水が温かく、遺体からガスが発生しやすい。するとそのガスが浮き袋のような役割をして浮かび上がってくる確率が高い。それが打ち上げられれば、砂浜に痛んだ遺体の独特のにおいがする。それが一つの手がかりになるだろうと。

 そしてそんな話している矢先に、砂浜の一角から生臭いにおいがした。遺体が打ち上がったのではないかと、二人はにおいの元を辿っていった。しかし、そこにあったのは行方不明の息子ではなく、砂浜に打ち上げられたウミガメの死骸だった。父親はなんとも言えない表情でがっかりしていた。

 

 二人は夜の浜辺も共に捜索することになった。もちろん常識的に考えれば視界の効く昼間のほうが好ましかった。また夏は昼間の方が潮位が下がる傾向にあり、見つかるなら昼間の可能性が高いと考えられた。

 ただそれでも夜の可能性を捨てることはできなかった。夜間に潮位の変化によって海中を漂っていたものが打ち上げられることもあり、その時間帯を逃すとまた水中に没してしまうかもしれないからだった。

 ある夜、ひとしきり砂浜を探し終えた後、サンドバギーを止め、ここらで一服しましょうかという話になった。青白い月明かりが浜辺を照らしていた。缶コーヒーを飲みながら、ふと父親が言った。

 「吉田さんっていつもこんなことをしているんですか?大変なお仕事ですね」  

 「自分の息子がいなくなったら、誰でも一生懸命探しますから。自分の家族だと思って探しています」

 そして吉田は話の流れから、話を聞きにくいと思いつつも思い切って聞いてみた。

 「どんな息子さんだったんですか」

 「どこにでもいる普通の息子だったんです。普通に友達と遊んで、楽しそうにしていました」

 そう言ったのをきっかけに息子の話をし始め、同時に涙を流し始めた。押しとどめていたものが堰を切ったようだった。再び吉田がバギーを走らせ始めた後も、父親の涙は止まらなかった。浜辺を歩きながら、泣いて息子の名前を呼んでいた。そんな時、吉田はかける言葉も見つからず、ただそっとしておくしかなかった。父親が落ち着きを取り戻すと再びバギーに乗って捜索を続けた。だんだんと口数も少なくなった。明け方近くになると探し疲れて家に帰り、また翌日、吉田と待ち合わせてバギーに乗り込む。そんな繰り返しだった。

 

 そうして一週間が過ぎた。

 

 夏の時期にこれだけ待っても出てこないということは、浮き上がってくる可能性は少ない。吉田はそう考えていた。そして父親に見つからない可能性をそれとなく伝えつつもあった。

 吉田が考えていたのは、テトラポットの下に吸い込まれてしまった可能性が高いということだった。そして何度も検討した結果、もしそうであれば、あとは偶然を待つしかないというのが結論だった。例えば台風が来て海底に引っかかったものが流されて出てくるなど、だ。だが吉田は、父親にそれをどう説明すべきか、逡巡した挙句、面と向かって言えずに時が過ぎていた。

 仮にテトラポット付近の捜索をするとしても、現実的には潜ってテトラポットの入り口付近を少し見る程度のことしかできなかった。それ以上深く入っていくことは、吉田の知る限りどんなダイバーでも危険過ぎて立ち入ることができなかった。テトラポットの近くは水の流れが複雑になっていて、急流に巻き込まれて二次災害の危険性があるからだった。

 とはいえ、テトラポットの入り口だけ探したのでは捜索したうちには入らなかった。もしそのことを伝えたとすると、おそらく父は県に掛け合い、テトラポットをどかしてくれと言うだろう。吉田は自分の息子が同じ目にあったら、少なくともそのように掛け合うだろうと思えた。

 しかし県がテトラポットの移動を断るのは目に見えていた。いくら人が行方不明といっても、既にある建造物を動かすことはできない。父親は吉田のところに戻ってきて、「どうにかならないでしょうか?」と相談に来るに違いなかった。しかしその時、吉田には何かできるだろうか。おそらく、何もできないだろう。つまりテトラポットに関しては、いろいろと掛け合ったとしても、結局は父親を何度もがっかりさせることになるだけだろう。捜索が続けば続くほど父親も辛くなっていくように思えた。

 以前にも、上がらないまま打ち切られたことがあった。ただ、その時は後々上がってくる可能性があることを家族に伝え、のちにその通り上がってきた。しかし、今回に限っては吉田の中でいろいろな可能性を総合した結果、どこかで上がらないような気がした。そしてだからこそ、そのことを言えないでいた。

 

 その日、夜の捜索を終えて空が明るくなり始めた頃、吉田はサンドバギーを片付けながら翌日の捜索予定をどうしようかと考えていた。すると不意に父親が声をかけてきた。

 「吉田さん、まだ見つかる可能性ありますよね?」

 吉田は父親に対してはっきりと答えた。 

「ゼロでないですが、これだけ探しても出てこないということは、可能性は低いと思います」

 すると、父親は念を押すように続けた。

 「そうですか、これ以上探しても見つからないですよね」

 吉田は慌てて付け加えた。

 「いや、でも百パーセント無理ということはないですから…。」

 「そうですか…。それならあとはうちの方で何とか探します。もう十分です。ありがとうございました。」

 それを聞いて吉田も限界かな、と思った。

 

 父親は捜索費用を支払いたいと申し出た。吉田は見つけられなかったのだから受け取れない、と一度は断ったが、父親が会社の仲間がカンパしてくれたので受け取ってほしい、というので受け取ることにした。

 別れ際、父親は砂浜の方へ歩み始めた足を止め、何かを思ったのか振り返って吉田の方へ歩み寄ると、吉田の両手を強く握り深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

 吉田はその手を握り返すことができず、「頑張ってください」と答えるのがやっとだった。父親はそのまま再び砂浜の方へ歩いて行った。息子を探し続ける気なのだろうとわかった。「もう十分です」と言っておきながら、心の中では居ても立っても居られないようだった。別れた後、再び海に向かって行った遺族は、後にも先にもその父親一人だけだった。

 父親はたった一人で見つけられるだろうか。いや、いくら強い気持ちがあっても、たった一人では現実的には難しいのではないか。もしかすると沈んでいた遺体が何かの加減で浮き上がってくることはあり得る。しかしそうでなければ、この人は親として何か月ものあいだ懸命に息子を探し続けるかもしれない。いや、ひょっとするとこのまま一生浜辺をさまよい続けるのかもしれない…。吉田は見つからないことの取り返しのつかなさを痛感し始めていた。

​​​

Copyright © 2020 KAIRI YADA

  • facebook