生い立ちなど  

 

 

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 吉田の一家は祖父の代から潜水業を営んでいた。吉田の祖父は熊治といい千葉県の南房総出身で、戦時中は戦艦のドックで船体の補修、修理の潜水作業員として従事していた。終戦後は、潜水の技術を活かして宮城県の職員として女川漁港事務所に検査の潜水士として派遣された後、民間の潜水会社に移った。民間の潜水会社に移ったのはその方が給料が高かったからだ。祖父熊治は後に宮城県内でも指折りの潜水士として界隈では有名になっていった。

 吉田の父親にあたる熊治の息子は浩といって、祖父熊治と同じように海の仕事に携わった。しかし浩は最初から潜水士になったわけではなく、中学校を卒業してすぐにかつお船の乗組員としての仕事を始めた。遠洋漁業のかつお船はハワイ沖や遠くは南太平洋のサモアまで行った。若かった浩は遠洋漁業に出る度に船酔いに悩まされ、何度も嘔吐することになった。数年が過ぎ、浩が二十歳になるかならないかの頃、熊治に声をかけられて浩もまた潜水の道に進むことになった。

 しかしほどなくして熊治と浩は親子二代の潜水士でありながら別々の潜水会社で働くことになった。後に吉田の母が語るところによれば、その背景にはこんな話しがあった。

 浩が潜水士になりたての頃はまだ現在のような水中電話や無線がなかった頃で、海中と陸上との連絡はもっぱら連絡綱と呼ばれるロープを引っ張ることによって暗号を送受信することで行なっていた。方法はいたって簡単で、例えば、綱を一度引っ張るとひき揚げる合図、二度引っ張ると下げる合図を意味するなどであり、その他に三回引っ張ったらハンマーをよこせ、四回ならのこぎりをよこせといった具合だった。そうした暗号を組み合わせて陸上と連絡を取り合い、海中の潜水者は作業を進めていった。その日その日で作業内容も用具も異なるため、毎日別の暗号が必要となり、それを毎朝潜る前に決めていた。

 十九歳か二十歳になったある日、潜水を覚えたての浩は熊治の助手として岸壁に立ち、綱を握りながら、熊治が水中で作業するあいだの補助作業に携わっていた。ところが海中の熊治が「下げろ」の合図を送ったところ、浩は手元の綱を「揚げて」しまった。熊治が暗号を送り間違えたのか、それとも浩が暗号を取り違えたのかは定かではない。が、とにかく下げるべきところを揚げてしまったために、熊治の手が石を吊っているワイヤーと石のあいだに挟まれ、そのまま巻き込まれてしまった。挟まれた指は大きくはがれ、陸上に上がってすぐに手当を施したが、その指はくっつくことはなく、熊治は指を切断することになった。その事故以来、自分の父の指をなくしてしまったことをずっと気にしていた浩は、祖父とは別の会社で働きはじめた。それが、吉田が母から聞いた祖父と父に関する話しだった。

 

 吉田浩文は一九六七年、宮城県女川町でそんな潜水の家系の長男として生まれた。女川の町ではちょうど原子力発電所の建設が始まろうという時代だった。原発推進派と反対派によって街は二つに分かれ、程なくして建設反対を唱える地元の漁師たちが鉢巻き姿でデモを繰り広げることになる。

 ただ、そのことを除けば女川の町は、どこにでもある東北の片田舎の小さな漁村に過ぎなかった。街全体が漁業、水産業で成り立っており、少なくない男たちが年頃になると勇んで海へと出て行く。遠洋漁業に繰り出しては何ヶ月ものあいだ荒波に揉まれて帰ってくるものも多く、気性の激しい男たちが肩で風を切って海辺の街を歩いていた。 

 豊かな自然に囲まれ、吉田ものびのびと育った。幼少の頃は木登りをしては落っこちたり、友達と山に行って栗を取ったり、海辺で釣りをしたりするごくふつうの子供だった。

 女川第一小学校に入学するとほどなくして後年の吉田に少なくない影響を与える出来事に出くわした。それはまだ入学して間もない一年生の頃だった。当時の担任は石堂明という男性教諭だった。小学校にあがったばかりの吉田にとって石堂は初めての担任だったが、優しく何でも話を聞いてくれたこともあり、吉田は石堂を慕っていた。

 その石堂のクラスであるとき、ホームルームの時間にみんなでゲームをしようということになった。ゲームは単純なもので、各列前を向いたまま座席に座った児童たちが前から後ろに向かって順番にハンカチを手渡し、列ごとの速さを競うというルールだった。そのとき吉田は前から四番目に座っていたのだが、吉田の列にどうしても動きの緩慢な児童がいたせいもあり、そのゲームを三度繰り返したが吉田のチームは三回とも最下位だった。四回目のゲームが始まろうとするとき、吉田は半分ふてくされながら言い放った。

 「どうせ負けるんだから、やらなくていいんだ」

 するとそれを聞いた石堂が吉田に歩み寄り、吉田の頬を平手打ちで二、三発殴ったあと大声で怒鳴った。

 「一回、二回負けたくらいで諦めるな。どうせ負けるだなんて、諦めるな。負けが続いても勝つまでやればいいんだ」

 さらに石堂は床に倒れた吉田の背中を引きずって教室の後ろまで連れていくと、そのまま鉄製のロッカーに吉田を叩き付けた。教師に殴られ唖然となった吉田はショックを受け、それ以来石堂とは話さなくなった。石堂はその年の終わりに転勤になったが、吉田は離任式に出席することもなかった。

 吉田が石堂の謝罪を知ったのは石堂が転任した後のことだった。母親から聞かされるかたちで、家庭への連絡ノートに石堂の釈明と謝罪が書かれていたと知った。

 「このままでは諦める大人になってしまうかもしれないと思い、つい殴ることになりました。申し訳ございませんでした」

 まだ幼かった当時の吉田には石堂のメッセージよりも、殴られたことのショックの方が大きかった。当時の吉田にとって石堂は「諦める大人になってはいけない」というメッセージを伝えようとした初めての大人だったと言えたが、吉田がその言葉の意味に気づくのはもっと後のことだった。

 同じく小学校一年生のときに、後の吉田にとってもうひとつ印象に残る出来事があった。将来何になりたいかというテーマで作文を書くことになったとき、吉田は「将来は人命救助をしたい」と書いたのだ。その作文は後に新聞社のコンクールで表彰されることになったが、もちろん数十年後に実際に潜水士として数々の人命救助に携わることになるとは誰も思っていなかった。

 父、浩が吉田に対して潜水士になれと言ったことはなかった。それどころか吉田は中学校に入るまで潜水士としての父親の仕事を実際に見たことさえなかった。にもかかわらず幼い吉田が作文に「潜水士になって人命救助をしたい」と書いたのは、子供心にある出来事が印象に残っていたからだった。

 あるとき父浩とテレビを見ていると人命救助をする潜水士の話題が取り上げられていた。その頃まだ父の職業が潜水士であることをおぼろげにしか理解していなかった吉田は父に聞いた。

「これ、お父さんと同じ仕事なの?」

「そうだな」

 実際に浩がそれまでに救助に携わったのは数回だけでしかなかったが、その答えを聞いた吉田には父親の仕事が人命救助専門のダイバーであるように映った。つまり自分の父親は年中人の命を助けているのだと、当時の吉田には思えたのだ。

 そして吉田はそんな命を救うようなダイバーになりたいと憧れを抱いた。

 「人を助けることができたらそれはすごいな。大きくなったらそういう人になろう。」

 しかし、吉田が実際に海に潜り、潜水の「いろは」を知るのは何年も後のことだった。中学校に入学すると吉田は潜水どころかトランペットを吹きはじめた。母親の弟にあたる叔父がトランペットをやっていたことに影響を受けてやってみようと思い立ち、吹奏楽部に入部したのだ。ところが当時の女川第一中学校の吹奏楽部は人数もほとんど集まらないような部活で、部員のほとんどは練習に参加せず、帰宅部に近いような部活だった。男子生徒はほとんどおらず、メンバーもなかなか集まらなかったため、吉田は放課後になると一人音楽室に残って音階の練習をこつこつとこなしていった。が、やがて練習に参加しない部員の姿を見て、自分も練習するのがばからしいと思うようになった。

 平凡といえば平凡な中学時代だったかもしれない。ただ、そんな中学校生活でも後の吉田に影響を与える教師との出会いはあった。二年生のときの担任で社会の教員だった小山要蔵という教師だった。小山は年を取って頭がはげており、歌が好きで、なぜかいつも朝鮮民謡の『アリラン』を歌っていた。その小山の教員としてのポリシーは「人は犬や猫ではないのだから殴って教えるものではない」というもので、教育現場での体罰が当たり前だった当時としては珍しく、どんなに怒っても生徒に手を挙げることはなかった。そしてその小山の姿は吉田にとって教師の鏡のように映った。

 ただその小山も二年生の終わり頃に一度だけポリシーを曲げたことがあった。当時クラスに札付きのワルのような問題児がおり、授業中も小山の話を聞かず、注意されると「うるせえ、ハゲ」とやりかえし、小山が「帰れ」というと「よっしゃ、帰る」という具合にいつも小競り合いを続けていた。そして学年が終わる頃、それまでずっと生徒を殴らないでいた小山が何かの小競り合いのときについにその悪童を殴ったのだ。それも力強く殴ったのではなく、ほとんど泣きながら弱々しく殴ったのだった。その姿はどうやって人を殴ったらいいのかわからないというとまどいや、自らのポリシーを曲げてしまったことへの狼狽が含まれていて、吉田にはなんとも人間味の溢れる姿に映った。いずれにしても自分よりも弱い相手に対して殴らない、暴力を使わなくても話せばわかるという小山のポリシーに吉田は魅力を感じていた。

 

 

 吉田には幼少の頃に母親から温かな愛情を注がれたという記憶がなかった。何かをして褒めてもらったという経験はほとんどなく、どちらかと言えば怒られることが多かった。長男だったこともあり、妹や弟よりも厳しく育てられたということもあったかもしれない。

 例えば弟や妹が好きな洋服を選んでいる時に、吉田だけは「あんたはこれにしなさい」と勝手に決められてしまう。あるいは母親の誕生日に弟妹たちを連れてプレゼントを買いに行ったが、「こんなもん買って、何するんだ。返して来い」と、長男である吉田が怒られてしまう。小さなことで自分だけが叱られ、その理由もよくわからないということが多かった。加えて次男は成績が良かったために、よく比較されたりもした。そのせいだろうか、「うちの息子はダメだ」と人前で言われて恥ずかしい思いをすることが多かった。

 父親は寡黙な職人気質で仕事一筋だったため、子育てのことは妻に任せているようなところがあった。朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰って来る。食卓でもどちらかと言えばあまり話さない方だった。厳しく怒られるというのでもなく、甘やかされるというのでもない。

 吉田が幼心に覚えているのは、どこかに出かけた折に、父親に会う人会う人が「吉田さんにはお世話になって」と口々に言ったことだった。どうやら仕事関係の人であるらしく、尊敬を集めているようだった。幼心に吉田は父親への敬意を抱いたが、その父親はどちらかと言えば放任主義だった。

 両親に共通していたことは、周囲の人々にいつも幼い吉田のことを卑下して紹介していたことだった。

 「こいつは何もできねえやつなんだ」

 「まだまだダメな息子なんです」

 海辺の田舎町の極めて保守的な雰囲気の中では、そうした乱暴な物言いは珍しいことではなかったかもしれない。少なくとも身内を卑下するということが、他者への「礼儀」の中に含まれていたと解釈できなくもない。

 しかし、両親のそうした態度が度を越したものだったためか、少年だった吉田の心に憂いをもたらした。そしてそれはのちに大人になった吉田の性格に少なくない影響を及ぼすことになった。

 

 

 吉田にまっすぐな愛情を注いだのは両親というよりも、むしろ母の弟である叔父だったと言えた。叔父は吉田よりも十一歳上で、長男だった吉田にとって何でも相談に乗ってくれる年の離れた兄のような存在だった。叔父は当時吉田が住んでいた女川の街から電車で三駅ほど行ったところにある、石巻の渡波(わたのは)というところに住んでいた。小学生の頃などは、毎週土曜日に学校が早く終わると叔父のいる祖母の家に泊まりにいくのが楽しみだった。

 叔父は若くして大工の頭領になり、家一棟建てられる現場主任になったが、石巻で事業に失敗した人だった。だが後に知り合いを頼って横浜に行き、そこで再起を図り、成功することになる。いずれにしても叔父の人生は紆余曲折に満ちたものだった。

 吉田にとって幸運だったことは、叔父がまだ少年だった吉田を子供扱いせず、大人として生きる上で大切なことを前向きな気持ちで教えてくれたことだった。

 「仕事で失敗したからって命まで取られるわけじゃない」

 「失敗しても何度でもやりなおせる、諦めたら終わりなんだ」

 「一生懸命最後までやれば必ず結果は見えてくる」

 叔父はまたこうも言った。男は子どものときに勉強ができるかどうかよりも、大人になって社会に出てからどれだけ仕事ができるかが勝負だ。そして仕事ができるかどうかは勉強の成績とはあまり関係がない、と。勉強が苦手だった吉田は、よく勉強のできる弟と比較されることも多かったが、叔父は「そんなに落ち込むことはない」と吉田を慰めた。

 吉田がその叔父を慕うようになるきっかけは小学生のときにあった。学校が嫌いだった吉田が授業に出たフリをしてさぼったことがあった。その時叔父が学校まで迎えにきて言った。

「学校、行きたくないのか?」

「うん、行きたくない」

「だったら行かなくていい」

「えっ、怒らないの?」

「怒ってもしかたねえだろう、行きたくないんだから。どうして行きたくないんだ?」

「勉強わからないから」 

「わからないのか。何がわからないんだ?基本的なことか?だったら基本的なことから勉強したらどうだ」

 吉田が学校の勉強はもう先に進んでいるからついていけないのだというと、学校は学校だ、それとは別にやればいいと言って一緒に勉強を見てくれた。

 しかし一、二時間も勉強すると叔父は「おい、ゲームセンターいくぞ」と言いだした。「学校では勉強は教えてくれるが、ゲームは教えてくれないぞ」と言いながら、吉田をゲームセンターに連れ出した。インベーダーゲーム、アレンジボール、ボーリングなどのゲームのやり方を一通り覚えると「覚えるの早いな。それだったら勉強も覚えられるだろう」という。吉田が「嫌いなものは嫌いだから」というと「だったら好きな勉強なら覚えられるだろう。何が好きなんだ」と聞いてくる。吉田は音楽と体育が好きだと答えた。

 後から考えてみると叔父の考えは「物事には理由がある」ということだった。理由もなく学校が嫌いになることはないだろうと。そんなふうに自分の気持ちをひとつずつほぐすように聞いてくれる叔父と話していると、勉強ができなくて学校が嫌になっていた気持ちが和らいでいくような気がした。

 また叔父は良いことでも悪いことでもまずは何でもやってみろと教えてくれた。あるときバイクの運転を教えてやるからと言って、祖母の家の裏の畑で乗り方を教えてくれた。足が地面に届かず何度もバイクを倒したが、大人になったような気持ちがした。またあるときは車を運転させてくれたこともあった。後から聞いたところによると、叔父はそうした無茶のために吉田の母親に「余計なことを教えるな」とひどく叱られていたらしかった。だが当時の吉田はそんなことも知らず、ただ嬉しかった。「勉強もできなければ、学校にも行かない。スポーツができるわけでもない」と周囲に言われてきた吉田を、叔父だけが一人前に扱ってくれたように思えたのだ。

 

 その叔父と中学二年生のときに石巻の渡波の万石浦橋という橋に夜釣りに行ったことがあった。季節は秋だった。周りにたくさんの釣り客がいたが、自分たちだけはいつになく釣れない夜だった。夜十一時頃、叔父と二人でホットコーヒーを飲んでいるときに吉田が何気なく聞いた。

 「おじさん、今ここで誰かが海に落ちたら助けにいけないよね。知らないふりして逃げるしかないよね」

 すると普段温厚でほとんど怒らない叔父が、急に怒りだした。

 「何を言ってるんだ。もし困っている人がいるんだったら助けにいかないとダメだろう。関係ない人でも助けなきゃダメだ」

 「え、でも自分が危ないじゃない…」

 「それはわかるけど、その人を見殺しにしていいのか?できる限りのことをして助けないとダメだろう。人が困っているのに見て見ぬふりはダメだ」

 可愛がってくれていた叔父に怒られたことはある意味でショックだった。自分の危険を冒してまでやれとは言わないが、できる限りのことをしなければいけない。叔父の真剣な眼差しはそう訴えていた。

 

  

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 吉田が潜水と出会うのは高校になってからのことだった。岩手県にある日本で唯一の潜水の専門学校、種市高等学校の水中土木科に進学したのだ。種市は吉田が生まれ育った女川の町よりもさらに小さな港町で、高校の校舎は漁港に寄り添うようにひっそりと建っていた。

 進学先に潜水学校を選んだ理由は単純なものだった。潜水士になりたいと強く願っていたというわけではない。小学校の頃の作文に書いた「人命救助」という夢に心を躍らせていたというわけでもなかった。

 ただ、中学校三年生になったときに父親に進路を聞かれ、漠然と「親父と同じ仕事をするかな」と答えたのだ。勉強が嫌いだった吉田は成績も常にクラスで下から二番目か三番目を争っていたし、運動がたいしてできるわけでもなかった。将来何になるかと聞かれたときに、長男だった吉田は漠然と父親の職業を継ぐのだろうと思ったため、父と同じ進路を選んだというのが理由だった。叔父が大工をしていたので、大工も考えたが、結局は父と同じ道に進むことにした。いずれにしても、それならと父に勧められたのが種市高等学校だった。調べてみると公立高校だったが他県からの出願もできると知り、受験することになった。

 そのころ父浩は初めて吉田を海に連れていった。父は潜水の学校に進むことになった吉田に、一度自分の現場を見せ、海に潜って仕事をするということがどういうことかを分からせたいと思ったのだ。

 それまでせいぜい二十五メートルを泳げるくらいでしかなかった吉田だったが、重りをつけて宇宙服のような潜水服を着て水に入っていく父親の姿を初めて見た。それによって、潜水士とはどんな職業なのかが大まかにせよわかった気がした。だがこの時、吉田は特にやりたいという気持ちを燃やしたわけではなかった。自分にもできるかなあ、という程度の感想を持ったに過ぎなかった。

 岩手県の種市高等学校に入学すると、吉田は宮城県からやってきた初めての生徒となった。吉田の学年には四十三人が入学したが、潜水を志して入ってきた者は吉田も含めて五人くらいしかいなかった。他の生徒は志望校に入れなかったときの、いわゆる滑り止めとして受験して入ってきたり、はなから他に入れる高校もなく入ってきたような生徒が多かった。そのためか三年後の卒業時には半分くらいの生徒しか残らなかった。途中で辞めていった生徒たちの中には船乗りになったり、ガソリンスタンドで働いたりした者もいたが、ただ単にやる気がなくて退学してしまったものいて、彼らがその後どうなったのか、吉田にもわからなかった。

 生徒は全員男子だった。当時の労働基準法で女性は十メートル以上潜ることはできず、女性は潜水士になれない時代だったために、女子生徒はいなかったのだ。後に男女雇用機会均等法が施行されてからは女性に関する十メートルの基準はなくなり、海洋開発科に数名だが女生徒が入ってくることになる。

 女川の親元から離れた吉田は、高校の近くのラーメン屋が営む下宿に四畳半を間借りし、そこで朝、昼、晩、三食の面倒をみてもらいながら高校生活を始めた。同じ下宿先には、先輩二人と同級生三人がいる共同生活だった。同級生もほとんどが岩手県内出身者で、最初は地元のなまり言葉がわからず、会話には苦労した。当時の岩手県の方言を表す言葉として「か、け、く」というのがあった。「か」は「ほら」のような呼びかけ、「け」は「食え」、「く」は「食う」を意味する。つまり「か、け」「く」と言えば、「ほら食え」、「食べるよ」という意味の会話がたった三語で成り立ってしまうという冗談のような本当の話しだった。

 いずれにしても青森と岩手の県境に位置する種市の辺りでは、山ひとつ越えると言葉が通じない、というのはおおげさではなかった。そしてそんな片田舎の小さな街だったためか、仙台にも比較的近い女川からやってきた吉田は何となく都会の方からやってきたように思われ、同級生から珍しがられたりもした。

 学校の授業は通常の科目の他に施工、測量、潜水といった専門的な授業があった。施工では図面を引く練習の他、溶接、切断など土木系の実技があり、測量は平板測量と呼ばれる土地の測量の他、レベル測量という高さを測るための測量やトランシットという距離や角度を測る測量法を学んだ。

 潜水の授業ももちろん実技だった。一、五メートル、三メートル、十メートルのそれぞれの深さのプールでスキューバ、ヘルメット式潜水の実技の訓練をした。プールの底に潜っていきパイプを組み立てたり、石を並べたりという実技を行ない、教官がプールの側面の窓からその様子を伺い、一緒に潜っていた別の教官が細かい指示を出す。そんな訓練だった。

 海洋実習の授業もあった。実習船に乗って沖に出て、ヘルメット式の潜水の実習を行うのだ。水深十メートルくらいの海底に行って、海底を歩いてくるという単純な訓練だった。中には潜水が苦手で、おっかなくて船体の手すりから手を離すことができない者もいたが、教師が半ば無理矢理に棒でつついたり蹴飛ばしたりしながら梯子から手を離せと命じた。やんちゃざかりの実習生たちは、海底から本来取ってはいけないほややうにを取って騒いだり、水中でドライスーツを脱いで脱糞する者を周囲が囃し立てたりした。

 一回の実習は二時間くらいかかり、船上で待機しているうちに船酔いをして吐いたりすることも少なくなかった。あるときなど同級生がヘルメットを被ったまま嘔吐し、次に実習の番が回ってきた吉田が汚れたヘルメットをそのまま被らなければならないこともあった。ただでさえ船酔いに弱かった吉田だったが、吐物の臭いで吐きそうになりながらかろうじて実習を乗り切った。

 

 十七歳になる頃、吉田は高校を辞めたいと思うようになった。理由はいくつかあったが、潜水の専門学校での授業に意味を見出せなくなっていたことが大きかった。同級生の多くは滑り止めで入ってきたために、潜水を志そうという気持ちがない者も少なくなかった。その意味では張り合いもなかった。そしてなにより父と一緒に潜水土木の現場に出たときの経験が大きかった。学校で習うことは潜水の現場では通用しないと強く思い知らされたのだ。

 その違いは、たとえばロープの縛り方ひとつにも表れた。当時ヘルメット式潜水では、鉛でできた靴をロープで縛るときに「垣根結び」と呼ばれる複雑な結び方を用いた。父の現場で教えられたときには、最後の結び目をきつく縛ることによって作業中も靴が脱げてしまわないような工夫がなされていた。しかし学校では最後のきつい結びがなかった。それは水中での作業時に危険なことがあればすぐに靴が脱げるように、という安全面からの配慮だったが、同時にそれは作業中に靴が脱げやすいというリスクを抱えていた。

 若かった吉田は父にこの違いについて問いただした。だが「作業中に靴が脱げたら仕事にならねえ」と一蹴されて終わりだった。現場経験のなかった吉田にはそれ以上何も言えなかった。

 当時学生だった吉田は父の現場に出ても半人前の扱いをされていた。あるとき現場の先輩にロープを縛ってみろと助手の仕事を任されたがロープの端の処理の仕方が甘かったり、作業の早さにしても遅かった。それを見た現場の先輩に笑われ、悔しい思いもした。だがそれでも吉田は現場の先輩たちを羨望の眼差しで眺めていた。彼らは汚い身なりをした、いかにも肉体労働者という風体だったが、現場で作業を始めるや慣れた手つきで仕事をこなしていく。親に授業料を出してもらいながらピカピカの作業服を着て授業に出ていた当時の吉田には、彼らの姿がたまらなく格好よく映った。勉強はもういいや、一日でも早く現場に出て仕事ができるようになりたい。そんな気持ちが学校をやめたいという思いに繋がっていった。その頃の吉田には大人になることへの渇きのようなものがあり、同学年の友人たちは子供のように見えていた。

 

 程なくして吉田は、当時付き合っていた恋人と駆け落ちをした。相手は三歳年上で、種市で床屋をしていた女性だった。吉田が通っていた種市高等学校の水中土木課には男子生徒しかいなかったが、普通科には女生徒がおり、ある女生徒の親戚として紹介されたのだ。

 当時、学校を辞めたいということを両親に相談しても取り合ってくれなかった。わざわざ辞めなくても後から仕事はいくらでもできるのだから、今のうちに勉強しておけと言われ、話は平行線をたどっていた。そのこともあって、吉田は恋人に高校を辞めて仕事に就きたいという思いを打ち明け、話し合った末に東京で一緒に仕事を探そうということになった。逃避行のようなつもりではなく、そのまま就職して東京で暮らすつもりだった。だがうまくはいかなかった。最初は恋人の兄を訪ねたが一日で「帰れ」と言われ、次に吉田が叔母の家を頼ったが、そこもダメだった。

 アルバイト情報誌に載っていた青梅の建築会社も訪ねた。家がないので「住み込み可」と書いてある勤め先を探し、ようやく見つけたところだった。事情を説明し、「家がないので住み込みでお願いします」と頭を下げた。すると「今時、若いのに女の人を連れて稼ぎに来ようというのは見上げたものだ」と感心された。見込みがあるから親に連絡して採用しようと言ってくれたが、よくよく調べると吉田がまだ正式に高校を卒業していないことがばれてしまった。結局この社長にも断られ、吉田は東京で働くことを諦めざるをえなかった。

 

 駆け落ちに失敗した後、両親と話し合った結果、吉田は女川の実家に戻って父と同じ会社で働くことになった。父はその会社で潜水士をしていたが、吉田は陸上の作業員として下積みの仕事を覚えるところから始まった。潜水士の免許は法的に十八歳にならないと取ることができないうえ、会社からも「免許を取る時間があったら、下積みの仕事を覚えろ」と言われ、いち作業員として働かされる期間が長かった。そのため吉田が潜水士の免許を取ったのは結局二十歳になった頃だった。

 

 

 学校をやめて働くようになると、吉田はすぐに学校と社会のギャップを感じるようになった。陸上作業員として働いていた時、こんなことがあった。

 現場で石が手にあたってしまい、吉田は筋を悪くした。そのまま病院に行き、どうして怪我したのかと医師に聞かれ、「仕事で石にぶつけました」と答えた。するとその怪我は労災扱いにされ、それを会社に報告すると社長と父親が激怒した。

「その程度の怪我で労災なんか使うな。今から病院に行って、仕事ではなくて歩いていて転んだと言え」

 ものすごい剣幕で言われた。はい、と答えて家に帰ったが、しょげかえった吉田には釈然としない気持ちが残った。晩飯のときに父親が言った。「本当は仕事で怪我したら労災なんだろうけどな。おまえの言ってることは、間違ってねえ。ふつうは労災かけるんだけど、そうしたら労基署が来て大変なことになる。みんなに迷惑かかるからダメなんだ。」労働基準局から査察が来て、次の仕事が取れなくなる。それを避けるための労災隠しだった。父は「労災は指がなくなってしまったとか、本当の大事のときだけしか使うな」と言ったが、使うために保険があるのに、使えないというのはおかしいと吉田は思った。

 吉田が疑問に思うことは他にもあった。吉田が通っていた現場に頭の回るじいさんがいた。そのじいさんは自分が嫌な仕事を他人に押し付け、自分は煙草を吸っては他の人間に指示を出すだけだった。だが社長や専務が現場に来ると自分も一生懸命に仕事をやり出す。吉田にはその男の行動が理解できなかった。社長が来ようが、暇なのに忙しいふりをする必要もないし、社長がいないからといって怠けてはいけない。それに一生懸命やっているときよりもだらけているときの方が目につきやすいと吉田は考え、与えられた役割を愚直にこなしていた。

 その姿を見た先輩たちは「おまえは要領が悪い」と言った。だが吉田としては、要領が良いということは人を騙すということなのかと納得がいかなかった。

 人に嘘をつくな、信用しろ、人の話を聞け、裏切るな。自分が幼い頃に散々大人たちから言われてきたことを、当の大人たちが守っていないことに吉田は気づき始め、おかしいと思うようになった。

  

 社会人として給料を貰いながら潜水の作業に従事すると、今まで学校で習っていた潜水はまったく違ったものに映った。潜水の現場には潜水士がいて、送気係、連絡係がいてはじめてひとつのチームができる。そのことは前からわかっていたが、いい潜水士に付いて仕事をすれば大きなやりがいを感じる一方、腕の悪い潜水士に付くと自分自身の評価も低いものになった。そうした現場の厳しさはそれなりに楽しくやっていた学生時代とはまったく違うものだった。

 自分自身の評価が低いことが続くと、吉田はどうせやっても意味がないと諦めの気持ちがもたげてくることもあった。

 そんなときに吉田はふと小学校の頃世話になった教諭の石堂明を思い出すことがあった。やさしい人柄を慕っていたが、学級ゲームの際に「やってもいねえうちに諦めるな」と吉田を殴りつけたあの石堂だった。幼かった当時は殴られたショックが大きかったが、今ではその痛みは消え、むしろ「こんな時こそ頑張らなきゃダメだ」と吉田を励ましているような気がした。 

 

 仕事を始めて二年ぐらいした頃、吉田は結婚した。相手は一緒に駆け落ちをして東京まで行った恋人だった。そのとき吉田はまだ十八歳になったばかりだった。田舎町の女川では総じてみな結婚年齢が低いが、吉田は同級生の中でも家族を持つのが一番早かった。

 周囲には「まだ仕事もままならないのに結婚など早すぎる」と反対されたが、当時の吉田には自分なりの人生設計というものがあった。慕っていた石巻の叔父からことあるごとに言われていた助言が大きかった。

 「仕事というものは自分のためだけでなくて、誰か他の人のために頑張らないとだめだ。好きな人でも家族でもいい、誰か他の人のために頑張ることで何倍もの力が出てくる」

 叔父は吉田と母親の不仲を知っていたため「親のために頑張ろうと思えなければ、彼女のために頑張ったらどうだ」と言った。そうした叔父の言葉の影響もあり、吉田は早く家族を持って仕事に打ち込み、潜水の技術を磨きたいと考えていた。

 

 

 働き始めてから数年後、二十歳になる頃に吉田は潜水士の免許を取った。毎日下積み的な仕事をこなしながら、空いた時間を利用してテキストを読み、学科の準備をする。潜水士の国家資格は実技試験がなく学科だけであるため、いろいろと暗記しなければならないことも多い。やっとの思いで取ることができた免許だった。

 ただ、実際に潜水士としての仕事ができたのはそれからさらに一年が過ぎた頃のことだった。その最初の仕事も、ごく簡単なものでしかなかった。水中コンクリートの型枠の調査といって、海の中に潜って、すでに他のダイバーが取り付けていたコンクリートの型枠がきちんと据えついているかを確認するというものだった。

 とはいえ、そんな単純な作業でさえ吉田にはなかなか回ってこなかった。保守的な建設業界にあって、半人前扱いされていた当時の吉田の仕事はむしろ雑用のようなものが中心だった。

 

 吉田が潜水の免許を取った頃は、日本の潜水がまさに変わろうとしていた時期でもあった。東京では現代的な潜水様式が取り入れられはじめ、それが東北の港町へと徐々に伝わりつつある頃だった。

 それまでの主流はヘルメット式潜水と呼ばれる他給式の方法で、十九世紀にはすでに日本に伝わり、実に百年以上ものあいだ重宝されていた。宇宙服のような重厚なスーツの内側に船上からコンプレッサーで圧縮空気を送ることで、送気ホースの届く範囲での潜水を可能にする。送気が続く限り潜り続けられることや、船上とのやりとりが可能なこともあって、長く使われてきた。同じヘルメット式でも、吉田の祖父の時代はコンプレッサーの代わりに手押しポンプをぱかぱかと押して空気を送ったり、有線マイクの代わりに信号索を使って合図のやりとりをしていたが、基本的な利便性は時代が移っても変わらなかった。

 ただこのヘルメット式潜水には難点も多かった。スーツの総重量は六十キロ以上にもなり、送気係と連絡係の二人を伴った大掛かりであるうえ、扱いも難しく、技術の習得に非常に時間がかかった。

 そして何よりも海中作業者が自力で浮力を得て海面に上がることができないという構造的なリスクを抱えていた。海上の送気係の送気によって、潜水服内部の気圧を調整することで、はじめて浮揚が可能になる。そのため万一、送気ホースが船のスクリューに絡まって切れてしまったりすると海中に取り残された者はなす術がないということになった。そのこともあってヘルメット式潜水による事故死が頻発していた。

 そのヘルメット式にとって変わりつつあったのが、スキューバ式と呼ばれる、優れた機動性を備えた自己完結型の潜水方法だった。自らタンクを背負うことで行動範囲を拡大させただけでなく、潜水者の自力浮上が可能になったため、安全性も劇的に向上した。この自給式潜水方法は、アクアラングという商標とともに主にレジャーを目的として戦後いち早く日本に持ち込まれていたが、土木潜水の作業現場に導入されたのは、ちょうど吉田が潜水現場で働き始めた頃のことだった。のちに吉田が独立して一人で現場に潜ることができるようになったのも、このスキューバ式が単独潜水を可能にしたためだった。

 ただこのスキューバ式にも短所はあった。ボンベに入った空気の量が少なくなれば陸、あるいは船に戻らなければならない。つまり一定時間以上、海中に潜っていることができないのだ。そのため時間のかかる海中での作業や空気の消費の激しい重労働にはあまり向いていないとも言えた。

 そこでヘルメット式とスキューバ式の長所を組み合わせた、新たなフーカー式潜水というものが登場した。スキューバ式の機動性の高さを確保しつつ、他給式のコンプレッサーで空気の供給を受けることができる。いわば、ヘルメット式とスキューバ式の良いところ取りだった。これによって動きやすく、かつ長時間の潜水が可能となった。吉田も後年、長期作業が予想される現場では、このフーカー式を用いて現場に立ち、ダイバーや助手を伴って海に潜った。

 

 

 3

 

 

 吉田は結婚してからも妻とともに女川の実家で暮らしていた。だがその結婚生活は簡単なものではなかった。ひとつには金のトラブルがあった。吉田はその後の人生を通して何度も金に悩まされ、振り回されることになるが、それは十七歳で働き始めた頃からすでに始まっていたと言えた。そしてそれは金のトラブルでありながら、また同時に母親との埋めがたい確執の始まりでもあった。

 十七歳で初任給を手にした頃から、吉田の給料はすべて母親に渡さなければならないことになっていた。吉田の初任給は十七万八千円だったが、それを一度全て母親に渡し、自由に使えるのはその中からもらえる二、三万の小遣いだけでしかなかった。その額は結婚して妻が吉田の実家に来てからも同じだった。そればかりではなく、妻も同じように稼いだ給料を吉田の母に預けなければならなかった。妻は吉田よりも稼ぎが少なかったこともあり、給料の中から一万円ほどを渡されるのみだった。

 それはのちに振り返ればかなり変わった風習ではあったが、当初、吉田は特に疑問に思うことはなかった。というのも、吉田の両親も若い頃に同じような考えのもとで育てられており、それが当たり前のように聞かされていたからだった。吉田の母方の祖父は酒飲みで、吉田の母は若い頃から奉公に出され、その稼ぎで両親の生活費をまかなっていた。吉田の父にしても若い頃に父が離婚し、腹違いの母親に育てられながら「あんた、育ててあげてるんだから」と、働くようになってからはお金を家に預けるようにしつけられていた。

 その意味では吉田の両親にしてみれば、子供が稼いだ金を親が管理するのは至極当たり前のことだった。吉田自身も小さい頃からそれを自明のことだと聞かされて育っていたため、稼いだ金の大半を取られてつまらないなという気持ちこそあったが、ある意味でいたしかたないと考えていた。

 吉田がそのような環境の特殊性に気づくのは、それから数年してからだった。高校を中退してひと足早く就職していた吉田に追いつくように、同級生が高校を卒業して働きはじめる年になる。すると皆が働きはじめ、自然と給料や実家に入れる生活費の話題にもなってくる。

 

 「俺んとこは、三万入れてんだ」

 「おお、すげえな、お前は?」

 「二万だな」

 「へえ、頑張ってるねえ」

 「うちは手取りが少ないからさ、まだ入れてねえんだ…」

 「でも一生懸命やってるじゃない」

 

 いろいろな家庭事情があったが、ほとんどの同級生は十数万円の給料の中から二、三万円を生活費として実家に入れたとしても、残りの十万円程度は毎月取っている計算になった。吉田だけが、給料の大半を親に取られてしまっていた。

 ある時吉田は母親に他の同級生の内情も踏まえて「おかしい」と主張したが、聞き入れられなかった。それどころか話を拗らせて「出て行け」と言われ、「だったら金くれ」と迫ると「金なんかない!」と突っぱねられてた。

 別の機会にも「家を出たいからお金を自分で管理させて欲しい」と相談したが、「おめえ、誰の子だ?おめえの親、誰なのや?」と凄まれ、取りつく島もなかった。募るばかりの不満を同僚や同級生に話すと、同情した一人が冗談交じりに「それ、本当に親なのか?」と返してきたこともあった。

 

 

 十九歳の時には妻との間に子供が生まれた。子育てに関しては吉田の母や妹も面倒を見てくれた。炊事や寝る場所にも困らなかった。その意味では新婚生活を実家で送ることのメリットはあった。

 だが妻と二人で働いているにもかかわらず、金銭的にはやはり苦しい状況が続いた。給料の大半を両親に持っていかれてしまうと、仕事の合間の昼食を食べてタバコを買えば手元には幾らも残らなかった。子供が少し大きくなり、週末に妻と三人でどこかに遊びに行こうと思っても手持ちがなかった。父か母がいなければどこへも行けず、もちろん貯金することもできなかった。

 当然のことながら、そうした状況は夫婦にとって大きなストレスになった。何度も話し合いが持たれ、その度に妻は吉田に懇願した。吉田の実家で両親と一緒に暮らしていれば衣食住には困らないけれども、夫婦と子供だけで家を借りた方がいいのではないか、と。

 しかし、母親に給料の大半を取られてしまうと肝心の引越しの資金を貯めることができず、結局は引越しの話は先延ばしになってしまった。妻はそうした状況にしばらく耐えていたが、他にもストレスはあった。

 夫婦で暮らしていた部屋に母親が「ちょっとタバコもらいに来た」など理由をつけて頻繁に出入りするようになったのだ。あるいは夜寝ていると、寝室と廊下を隔てる曇りガラスの向こうに母親の影が映り、母親がドア越しに夫婦の会話に聞き耳を立てているということもあった。妻はたまりかねて姑である吉田の母に言った。「あまり私たちの部屋に入ってもらいたくなんです…」

 勇気を出して言ったが、弱々しく頼んだこともあって「ここは私の家ですから。私たちが建てたんです」という返事が返ってきた。

 

 やがて吉田の母、弟や妹までもが吉田の妻にあれこれと家事を押し付け始めた。洗濯や炊事など、多くの仕事が吉田の妻に任された。吉田の妻は嫁いできた手前、はいはいということを聞き続けていたが、見かねた吉田がある時怒った。

 「俺のところに嫁に来てるんだから。あんたら家族はちょっとくらい遠慮したらどうなのや」

 すると母親から「いや、あんたんとこでねくて、うちの家族のとこさ嫁に来たんだから」という返事が返ってきた。吉田だけの嫁ではなく家族みんなの嫁なのだから家のことも手伝ってもらうのだ、という言い分だった。吉田は自分と母親の間に埋めがたい溝が横たわっているのを感じた。

 結婚してから四年後に次男が生まれたが、その後も状況は変わらず、むしろ悪化するばかりだった。妻のストレスが吉田に向けられることも多くなり、やがて吉田と妻の関係も悪くなり始めた。吉田自身も仕事が終わって家に帰るのが億劫になり、結果、最初の結婚生活は四年ほどで終わった。

 それから程なくして吉田は二十三歳の時に別の女性と再婚したが、結果はほとんど同じことでしかなく、今度は結婚生活わずか半年で終わってしまった。

 

 

 4

 

 

 仕事を始め、給料を取るようになったことで金の争いが増え、母親との関係は悪いものになった。ただ、関係が変わったという意味では、父浩との関係にも同じことが言えたかもしれない。

 それまでは普通の父と息子の関係であったが、吉田が浩の会社で働き始めたことにより、同じ会社の先輩後輩関係が加わり、これが二人の関係に変化をもたらした。潜水という特殊技能の世界では、現場経験の有無はそのまま師弟関係のような厳しい上下関係を意味したからだ。

 例えば吉田が体調を崩し、三十八度の熱を出したことがあった。しかし父浩は吉田が休むことは許さず、無理やり会社に連れて行った。熱を出して節々が痛む中、肉体労働に出るというのは、過大な負担がかかるだけでなく集中力が散漫になったりして危険も伴う。その意味では無茶な要求ではあった。だが浩は「仕事に行け」の一点張りだった。

 職人気質の浩らしいといえばらしかったかもしれない。出過ぎた真似をせず、先輩の言うことを聞き、言われたことをやっていればいい。それが浩の基本方針だった。そうした厳しさに加え、小さな頃から「こいつはできが悪いんですよ」と人前で恥をかかされてきたことは、変わらず続いていた。

 あるいはそうした厳しさは、親子ゆえであったと言えなくもない。つまり同じ会社に入ってきた息子を甘やかしたのでは、父親として恥ずかしいという思いが父親の側にあり、それが必要以上の厳しさとなって現れたと見ることもできる。

 だが、いずれにしてもこうした積み重ねによって、仕事を始めてからの吉田は鬱屈した日々を送ることになった。父と母だけではない。職場の人間からも認められず、吉田は必要以上に見下され、雑に扱われていると感じることが多くなった。そうした意識は吉田の反骨精神を増幅させることとなった。

 「いまにみていろ」

 そんな気持ちが若い吉田の中に溜まりつつあった。

 

 

 そんな鬱屈した気持ちが勢いよく外部に放たれる日は遠からずやってきた。この頃の吉田といえば、就職して数年が過ぎていたとはいえ、まだ二十歳を過ぎたばかりの若者に過ぎず、相も変わらず一作業員として先輩からこき使われていた。

 「ロープが切れそうだから編んでおけ」

 「ホースを洗っておけ」

 「オイル交換しろ」

 「船を掃除しておけ」

 「ジュースを買ってこい」

 あるいは重いものを持たされたり、父浩の仕事ぶりが良かったために「大して仕事もできないのに親の七光りだ」と蔑まれることもあった。吉田としても理不尽な上下関係もやむなし、自分は下っ端でまだ仕事ができないのだから多少の理不尽も仕方がない、と言われるままに黙っていた。

 

 そんな日々が続いていたある時のことだった。現場で船に乗っていて、昼食の後、いつものように先輩から「ロープが切れそうだから編んでおけ」と命じられた。吉田は言いつけ通り船の後ろでひとりロープを編みながら漠然と考えを巡らせた。高校をやめて四年間下働きを続けてきたが、状況は変わらず、いつまで使いっ走りにされるのだろうか。そのことを父親に相談したこともあったが「おめえが仕事覚えるのが遅えからだべ。黙って言うことを聞いてればいいんだ」と言われた。出口のないトンネルをいつまで進むのか、そんな気持ちだった。

 そしてロープを編みながら、いったい自分には何ができて、何ができないのだろうかとひとつひとつ数え始めた。仕事を覚えたての頃は、例えば「ペンデルを作っとけ」と言われても「ペンデルって何ですか」といちいち聞き返さなければならなかった。ペンデルとは車のタイヤを切って船と岸壁の間のクッション材にしたものだが、そうしたわからないことを聞き返す度に半人前扱いされた。そして「ウィンチを巻け」「プライヤーを持ってこい」と言われる度に、それらをひとつずつ覚え、少しずつできないことをクリアしてきた。

 今、改めて毎日やらされる仕事の中で、できるもの、できないものは何かと確かめてみた。するといつの間にかできないことは一つもなくなっているではないか。それは自分でも意外な発見だった。自分は仕事ができないわけではない。実は仕事はできるのだ。それまで先輩の作業員たちに我が物顔でこき使われていたのは、彼らの方が仕事ができ、格が上だからだと半ば諦めるような気持ちでいた。

 しかし、よくよく考えてみると、自分にできない仕事は一つもないではないか。むしろ、彼らはただ面倒臭がってやらないだけなのだということがわかってきた。同じ給料をもらっているのに、自分ばかり仕事が多いのはおかしい。むしろ彼らの方が給料をたくさんもらってさえいる…。そう思った時、吉田は自分の置かれた不条理が突然許せなくなった。

 

 午後の仕事が始まりベテランダイバーが潜水を開始した時、吉田はいつものように船上で、年長の作業員と二人きりになり、その年長者から助手の役割を押し付けられる格好になった。そしてその時に吉田の中で何かがぷつりと切れた。他人に助手をやらせて自分は悠々とタバコをふかしている年長者が許せなくなったのだ。

 「おめえ、仕事やれんのか?やれんならやってみろ」

 「あん?なんだ、この?」

 男と一対一、甲板の上の空気は一気に不穏なものになった。

 「なんだ、じじい。おめえ、俺と喧嘩して勝てると思ってんのか?」

 吉田は男の首根っこを捕まえて、思い切り振り回した。先輩といっても六十歳になろうかという初老の男だった。取っ組み合いになれば若い吉田に分があった。まさかつかみかかってくると思っていなかった男は驚きを隠せず狼狽した。結局は立場が逆転し、助手を務めていた吉田が、年長者にその役割をやらせることになった。

 

 現場が終わった後、吉田の暴挙は周囲に知れ渡るところとなり、当然「生意気だ」という声が上がった。だが吉田の蜂起はその場限りのものではなかった。その日を境に吉田はそれまで使われてきた先輩を逆に使うようになった。それまで散々やらされてきたのだから、同じ分をやってもらうのが妥当だった。

 だがそうした突っ張った態度が続くうちに、社内でも問題視され始め、度々喧嘩や言い合いが起きた。そしてそれが続いた末、吉田は会社を飛び出すようなかたちで独立した。同じ会社に勤めていた吉田の父も、吉田のケンカが原因で居づらくなった。会社の上司は「吉田が謝れば戻ってきても良い」と言ったが、吉田は譲らなかった。自分の言っていることは間違っていない。最後までその考えは変わらなかった。

 

 この時を境に吉田の表面上の性格は大きく変わったと言えた。それまでの吉田は何か不条理があってもどこかで自分を納得させて黙っていることが多かった。小さい頃に勉強ができなくて「バカだ」と言われても何も言えなかった。ただ鬱積した気持ちだけが知らずに溜まっていた。しかし一度怒ることを覚えると、堰き止められていたやり場のない思いが噴出していった。それは内なるマグマの奔流だった。そしてこの「勢い」こそが自分自身を突き動かしていくということに吉田自身も少しずつ気づき始めていた。

 

 とはいえ、独立したと言っても簡単に物事が運ぶわけではなかった。フリーランスのダイバーとしてそれまで続けていた仕事を継続的にこなしていく以外に収入のあてはなかった。しばらくは鳴かず飛ばずという状態が続いた。潜水士としての技術に関しては一通りのことはできると思っていたが、新しい仕事を取ってくる営業に関しては全く違うものだった。しかたなく昼は土木作業、夜は運転代行のアルバイトを掛け持ちすることになった。すでに子供も妻もいたため、食い扶持を稼いでこなければならなかったのだ。

 周囲は独立してもうまくいくわけはない、と口々に言った。だが、吉田には自信があった。黙っていて仕事が来るような甘い世界でないことはわかっていたが、仕事を取るためにやれることはいくらでもあった。技術的にまだできないことも、現場に出ながら勉強すればいい。仕事を取りたければ、粘り強く挨拶回りをするでも良い。言われればどこにでも行く。それをやりきらない限りは「可能性はどこかにある」という思いがあり、その感覚が「きっと良くなる」という楽観的な気持ちにさせた。

 

 吉田は生き急いでいた。何かにせっつかれるように、前へ、前へと自分を押し進めていた。そしてそれは早く円熟した大人になりたいという焦りのような気持ちとなって現れた。

 あるとき現場で一緒になった土建屋の社長と話をしていて「おめえ、いま何が欲しい?」と聞かれたことがあった。

 「歳が欲しい」

 それが吉田の答えだった。早くもっと年齢を重ねたい。それは若くして独立した吉田はならではの答えだったかもしれない。年上の社長などと商談をする時に、若いからという理由で相手にしてもらえないことが何度もあった。その度に「経験もないくせに」とあしらわれてしまう。反対に、たいして仕事ができなくても、歳を重ねているというだけでなんとなく他の人も耳を貸すということもたくさん見てきた。そうした不条理が悔しくてならなかった。

 

 ならば自分も早く年をとって世間に認められたい。そうした思いが募っていた。世間には二十代を過ぎて三十代、四十代になると自分を若く見せようとする人間もいた。だが吉田はそうした考えをくだらないと思っていた。若く見られて何か得することがあるだろうか。人間は中身が大切ではないのか。変な格好をしていようが、歳を食っていようが、話していることに説得力があったり、人の気持ちがわかるような人間の方がすごいに違いない。吉田は円熟した大人に憧れていた。

 

 一年ほどフリーランスのダイバーとして働いた後、自分の会社を作った。そしてあらゆる伝手を頼って営業を続けた結果、初めて松島の現場を任せてもらえることになった。

 「いつも来てもらってるから、吉田くん、今度やってみる?」

 そんな声がかかった時、吉田はある意味でまだスタートラインに立ったばかりだった。できることは何でもやった。海底の測量や調査といった、建設業に関わるものはもちろん、レジャーダイビングのインストラクターを引き受けたり、中には海底にくっついているアワビを採ってくるという海産物の採集の仕事もあった。

 

 

 5

 

 

 この頃、吉田は自分の環境を変えたいと強く望んでいた。実家での暮らしにうんざりしていたからだった。両親に給料の大半を取られ、引っ越しの金を貯めることもできず、少ない小遣いをもらいながら実家にとどまらざるを得ない。結婚しても嫁は実家と折り合いがつかずに出て行ってしまう。そんな負のサイクルを断ち切らなければならないと焦っていた。

 

 実家における吉田の立ち位置は極めて奇妙なものだった。金をめぐって両親に束縛されている一方で、家庭内での吉田の存在感は薄いものになっていた。朝から晩まで働きづめだったため子供との時間をろくに作ることもできず、息子たちの顔を見ることができるのは週に一度もあるかないか、というところだった。その一度にしても、まともな会話ができるかといえばそうとも限らなかった。 

 吉田の代わりに吉田の母親が息子の面倒をみていた。吉田の母親は初孫である吉田の息子たちを可愛がり、時間があれば外に遊びに連れ出した。そのこともあって、次第に息子たちは吉田の母に懐いていき、それに伴って吉田の存在は希薄になっていった。

 ある時愕然とするような出来事が起きた。小学校に上がったばかりの長男が、クラスで「初めての手紙」を書いた時のことだった。家族全員に一通ずつ感謝の手紙を書くという授業だった。しかし長男の書いた手紙には祖父母の分はあったが、父親である吉田へ宛てた手紙がなかった。吉田がどうしてかと聞くと長男は「お父さんは『疾走していなくなった』と言われていたから」と事も無げに言った。無邪気さがことさら胸に刺さった。どうやら吉田の母がそう吹き込んでいたらしかった。

 生き急ぐ吉田の気持ちとは裏腹に、いろいろなことがうまく行っていなかなかった。両親に金を取られては険悪になり、あくせくと働いても子供の心は自分から離れていってしまうばかりだった。朝は早く、夜も遅かった。家族のために一生懸命稼いでいるはずなのに、なぜか自分の居場所はなかった。吉田にはふつうの家族を築くという、人並みの幸せを願う気持ちがあった。だがそこから大きくそれている自分自身を感じ始めていた。

 

 そんな出口のない状況を変えようと決意したのは、唯一頼りにしていた石巻の叔父の死がきっかけだった。幼い頃から釣りや勉強だけでなく、バイクや車の運転や人としての在り方まで教えてくれた叔父だったが、大人になってからも付き合いは続いていた。吉田が独立した時も周囲が「バカじゃねえの」と取り合わない中、叔父だけは「頑張ってやるしかねえ、諦めねえでやるしかねえ」と励ましてくれた。何より吉田が独立して自分の会社を興したのも、慕っていた叔父が若い頃に独立した姿を追いかけていたからだった。

 その叔父が胃がんを患い、モルヒネを打たれて意識が朦朧としているという最後の晩に、吉田は横須賀の病院に見舞いに行った。

 

 「おじさんがいなくなったらオレ、どうすりゃいいんだい」

 

 子供の頃は気づかなかったが、叔父は苦労を重ねていたようだった。若い頃に石巻で腕のいい棟梁の弟子となって懸命に大工の腕を磨き、それから独立して個人で大工業を始めたところまではよかった。

 だが、叔父の兄にあたる人物があまり仕事をしない人であったため、その面倒を見ているうちに会社の経営も傾き始め、持ち上がっていた結婚の話も流れてしまった。それが祟ったのか、結局は会社を潰してしまった。

 その後再起をかけて横須賀に渡って新たに会社を作り、運良く西武グループの下請けの仕事を見つけて軌道に乗せることができた。ただ、懸案だった兄の面倒を見続けていたこともあり、心労も重なって若くして胃がんを患ってしまっていた。

 横須賀の病院に見舞いに行った時、叔父はすでにベッドから起き上がることもできない状態だった。点滴を入れられて鼻にチューブが通され、抗がん剤によって髪の毛も抜けつつあった。痩せて頬はこけ、とても三十四歳とは思えなかった。

 「教えることは教えたから、あとは自分で思う通りに生きればいい」

 弱々しく言った叔父の言葉には、本当にこれが最期なのだという響きがあった。唯一自分を支えてくれた人、相談できる大人が、いよいよこれでいなくなるのだなと思うと不安が押し寄せてきた。その叔父が死の間際に言い残したことがもう一つあった。

 

「おめえの母ちゃんが死なない限り、おめえは良くならねえ」

 

 叔父は少なく見積もっても人格者であったはずだった。その叔父が死の間際に実の姉を指して、「死なない限り息子は良くならない」と言ったのだ。その言葉は吉田の心の深い場所に重く響いた。

 かつて吉田は叔父に母親と金の問題を相談していたことがあった。母親に金を管理されて自分の金がなく、家を出ることもできない、と。すると叔父は実の姉である吉田の母を諌めてくれた。

「お金を取ってしまうと、浩文の働く気もなくなるのではないか」

 だがそれが逆に母を怒らせることとなった。親子の問題に横槍を入れたことで「余計なこと言うな」とひどい剣幕になった。以降、叔父への相談すらできない時期が続いた。叔父は吉田と母親の尋常ならざる関係に最期まで心を痛めていた。

 

 それまでにも幾つかの身内の死を経験していた吉田だったが、慕っていた叔父の死は特別なものだった。若くして亡くなってしまい、やりたいことはたくさんあったろうに、その半分もできなかっただろう。悔しかっただろう。そう思うほどに悲しい気持ちになった。

 吉田はまた、いつかやってくるだろう自分自身の命の終わりにも思いを馳せずにはいられなかった。叔父は無念にも若くして亡くなってしまったが、自分は最後の最後まで頑張って生き抜きたい。我が生涯に一片の悔いなし。そう思えるように生き抜いて、最後は晴れやかに死にたい。そして願わくば、周りの人にも生ききった自分のことを笑顔で見送ってほしい。そう思うようになった。

 

 叔父の死後、吉田は自ら起こした会社の舵取りに力を入れ始めた。もう頼れる人はいなかった。自分自身で道を切り開かなければならなかった。自ら会社を経営することで、それまで親に管理されていた金の問題を解決しようというつもりだった。それは実質的には、母親に対する蜂起の意味合いを持っていた。金銭的な自由を勝ち取り、実家を出て独立しよう、そう密かに計画を立てていた。とにかく母親の影響から逃れる人生にしなければいけない。その思いは差し迫ったものになっていた。

 

 しかし簡単にはいかなかった。親の呪縛が会社の金にも及んだためだった。吉田が作ったはずの会社だったが、なぜか両親はその会社の経営にも参画するようになっていった。

 とりわけ母親は「お前じゃ、会社なんてできないだろう」と理由をくっつけて、会社の数字の管理を半ば勝手にやり始めた。しかもその数字の管理は、管理とさえ言えない極めてずさんなものだった。会社の金と私的な使途がごちゃまぜになり、勝手に現金を引き出して使い込んだりした。

 会社の経営上の数字は、それまでのいち個人の給料よりも大きな数字となった。そのことが母親の気を大きくさせたのかもしれなかった。派手な散財が始まり、宝石を買ってみたり、パチンコに繰り出してみたり、訪問販売で七十万円の掃除機や百二十万円の布団を買ってみたりした。あるいは家族や身近な親戚に小遣いをばらまいてみたりもした。

 本人に悪気はまったくないようだった。母親は人を騙して金を取るような人間ではなかった。ただ「息子の金は私の金」と考えているだけだった。その「息子の金」も本来的には吉田の金ではなく「会社の金」だったのだが、そのこともよくわかっていないようだった。稼いだ金は会社ごと、まさに吸い上げられていった。

 当然、売り上げと支払いの帳尻も全く合わない状態に陥った。やがて税務署からそのことを指摘され、追徴課税を支払わなければならなくなった。吉田の蜂起は失敗に終わるどころか、さらに悪い状況へと突き進んでいた。母親を忌々しく思う吉田の気持ちは、もはや憎悪と呼べるところまで来ていた。

 

「どうして俺の親はこんな親なのか」

 

 噴出する寸前のマグマのような苛立ちが吉田の中に溜まっていた。ただ「血の繋がった親なのだからいつかは分かり合えるだろう」という気持ちだけが、その噴出を辛うじて押しとどめていた。

 

 ただ一方で、吉田は母親に対して心の底では別の気持ちを抱いてもいた。吉田は、ふだん人に対して羨んだり妬んだりということは少ない方だった。例えばたまたま金持ちの息子に生まれたという人がいても、稀に見る恵まれた容姿の人間がいたとしても、さほど羨ましいという感情を抱いたことはなかった。だが、唯一他人に対して羨ましいと思うことがあるとすれば、それは誰かが他人の前で「うちの息子はいい息子なんです」と褒めているのを聞いた時だった。

 子供の頃から母親や父親とともに人前に出ると必ずと言っていいほど「うちの息子はダメなんだ」と言われ続けてきた吉田にとって、それは決して手に入らないものを見せつけられているような光景だった。羨望の眼差しで眺めるとともに、心の底の方で何かが萎えてしまうような光景でもあった。

 

 その意味で吉田の心の底にはいつも親に認められる、褒めてもらえるということに対する渇きがあった。だがその渇きは潤されることはなく、長い時間とともにねじれ、やがて憎しみのようなかたちへと姿を変えていった。同時にそれは吉田の内面的な欠落として、どこかで自信のなさや空虚さといった影を落とし、極端な性格を生み出すことにもなった。

 吉田には困っている人を放っておけない優しさや正義感があるかと思えば、一転、気に入らない人間や自分を脅かす人間を鋭く人を攻撃するという一面があった。前者は慕っていた叔父からの教えを素直に受け取った結果だとすれば、後者は両親とのねじれた関係に端を発していた。その両極端な性格は、そのまま吉田自身の人間関係にも現れ、後年、吉田を慕ってやまないという人が現れるかと思えば、一方でたくさんの敵を作ることにもなった。

 

 会社の実権を母親に握られてしまった吉田だったが、その母親に経営のセンスが全くなかったことは幸いなことだった。自分でもどうしようもなくなったのか、母親は程なくしてうまくいかなくなった会社の経営を放り出したからだ。吉田がその尻拭いをする羽目になり、めちゃくちゃになった会社を立て直すのにしばらくは苦労したが、正直なところほっとしていた。両親が会社から手を引けば、自分で管理することができる。その先には両親からの金銭的な独立があり、それは母親の死を待たずとも道が開けることを意味していた。

 

 

 6

 

 

 反骨精神をむき出しにするような吉田の生き方は、主に苛立ちや怒りといったネガティブな感情から生じていたものだった。だが、それは時として見ず知らずの他人を巻き込んで仲間にしてしまう、という不思議な力を生み出していくことにもなった。

 ある時、吉田は銀行に金を借りに行ったことがあった。会社の資本金や潜水用具を揃えるために、三百万円ほどが必要だった。吉田は銀行のドアを開け、初対面の融資担当者に会うなり、「金を貸してくれ!貸してくれなきゃ、今後付き合いはねえぞ」とまくし立て、言うだけ言って帰って行った。

 銀行の担当者にしてみれば、初対面で「今後の付き合いはない」とはあまりに強引で、正気の沙汰とは思えなかった。だが客は客に違いなかった。案件が回ってきた以上、一応、調査はしなければならない。吉田の態度があまりに尊大だったため、担当者は当初、吉田のことをどこかの大企業の御曹司かと思ったくらいだった。

 だが、調査を開始してみると大企業どころか今にも傾きそうな会社であることがわかった。自宅に潜水用具を置いてあるだけの小さな会社であることはまだよかったにしても、立ち上げたばかりでまだ営業実績に乏しく、何より営業許可証を取っていなかった。つまりもぐりの潜水士ということだった。当然、融資の基準には全く乗るはずもなかった。担当者は呆れ、そのまま断ってもおかしくはないところだった。

 ただ吉田の話を聞いていると、そこには見過ごせない何かがあった。妻と小さな子供が二人おり、仕事がうまくいかなければ本当に路頭に迷ってしまいそうだった。また人一倍熱心に働いているようでもあった。現場に出て帰った後に、普通の会社であれば別の担当者が行うはずの経理の仕事をやる。ある時は仙台の国分町で宴会騒ぎをしている元請け業者に呼びつけられ、「払っとけ」と言われて飲み食いの支払いをしていたようだとも知った。仕事を取るための、吉田のなけなしの接待だった。人よりも苦労しているな、というのが担当者の印象だった。

 年上だった担当者にとって、吉田の尊大な態度は生意気そのものでしかなかった。だが同時に仕事に対する熱意も伝わってきた。そして横柄な態度のどこかに「将来、大きくなるかもしれない」と思わせるものが隠れている気がした。

 気がつくと担当者は吉田と冗談を言い合うようになっていた。

 

「吉田さんの会社は、二つの意味でもぐりなんだよね」

 

 二つの意味とはもちろん潜水の他に、「無許可の」という意味だった。それから担当者は三百万を貸して欲しいという吉田のために稟議書をあげた。当然上司からは戻され、融資は認められなかった。だが次の日にはまた、いくつかある案件の書類の一番下に吉田の融資の案件をそっと忍ばせ、提出した。再び却下されるが、また同じことを繰り返す。それが一週間続いたある日、支店長が言った。

「わかった。どうしても貸したいのだな?」

 そして一千万円分の支店長枠の中から、裁量で三百万円を貸すことが決まった。

 それ以降も懸命に働き、吉田は少しずつ仕事を拡大して金を貯めていった。独立したての頃は営業のやり方もわからず、仕事が取れなかったため、潜水以外の仕事をせざるをえなかったが、次第に潜水の仕事だけで軌道に乗るようにもなってきた。

 そして二十七歳になった時にやっと一人暮らしを始め、両親に金を預ける必要がなくなった。人生で初めて三万円以上の現金を手にすることができたのもこの頃だった。

 

 

 とはいえ順風満帆というわけではまったくなかった。吉田は離婚したのち、子供二人を実家に預けたまま、家を飛び出した形になったからだ。さすがに会社を経営しながら男手一つで二人の息子を育てるというわけにはいかなかった。しばらくは実家に息子たちを預け、自分が独立して生活の基盤を作ったのちに迎えに行こうという考えだった。離れて暮らしていても小さな子供に少しでも美味いものを食べさせてやりたい、良い服を着させてやりたいという親心はいつも持っているつもりだった。

 ただそれも空回りするばかりだった。吉田が家を出たことによって長男は母親にますますなついていき、心は離れていった。それに伴って吉田の内面的な矛盾も大きなものになっていった。息子には会いたいが、母親には会いたくない。吉田が心の底で感じていたのは、ソリの合わない母親に息子を取られてしまったような歯がゆさだった。

 

 だが二十七歳の時に三度目の結婚をすると、新たに二人の娘が生まれ、再び実家に戻ることになった。働きながら小さな子供を育てるうえで、実家の両親を頼らざるをえなくなった。実家に戻って母親に対面した時、「またか」と言う反面、息子たちと暮らすことができる嬉しさもあった。

 

 三度目の結婚生活はそれまでの二度の結婚生活よりもさらに状況が悪化した。北海道にいた吉田の妹夫婦が仕事の都合で実家に戻ってきたために、三家族が一つの家で暮らすことになったのだ。不思議な暮らしだった。狭い家というわけではなかったが、息苦しさが増し、それまでよりも些細なことでのトラブルが多くなった。

 例えばこんなことがあった。当時吉田の会社は石巻にあったが、夜遅く女川の家に帰ってくると、家の玄関の鍵が閉まっていた。窓の隙間からリビングの様子を覗いてみると、妻が妹の旦那の晩酌をついでいた。肝心の妹は寝ていて自分の旦那に飯を出しそびれていた。自分は遅くまで働いて、疲れて家に帰ると家に鍵が閉まっている。妻は別の男に酒を注いでいる。どうしてそんなことになるのか。

 吉田が鍵を閉めた理由を問いかけると、夜になったので小さな子供が家から出てしまわないように、というものだった。それはそれで仕方なかったが、納得のいかなさは募った。

 

 端から見れば些細なことではあった。だが吉田の妻に三世帯分の家事が回ってくることもあり、そうしたことが続くと、吉田としても面白くはなかった。ある時、妹夫婦に「おめえたち、自分のことは自分でやれ」と怒鳴った。すると吉田の母が降りてきて「いいんでねえの、そんなことで怒るな」と、ますます収集がつかなくなった。そうしたことの積み重ねで、三世帯の関係はギクシャクとしてきた。

 結局三人目の妻も前と同じく新しく家を借りて、どこか余所で夫婦と子供だけで暮らしたいと言い出した。当然と言えば当然だった。しかしその時も意見の対立は表面化した。吉田はもし家を出て行くことになったら、自分の子供は前妻の息子二人も含めて四人全員連れて行きたかった。だが妻は自分の娘二人と吉田の四人で出ていきたいと言い、吉田の母にしても、孫である長男と次男は置いていけと言った。吉田としては、それは最後まで納得いかなかった。結果的に協議離婚になり、妻が娘二人を連れて出て行くことになった。吉田はそれきり娘二人と会うこともなくなってしまった。

 

 それからというもの、吉田は仕事に力を入れた。若い時から感じていたあらゆる不条理や、怒り、そして「いつか自分のことを認めさせてやる」という反骨精神はすべて仕事という一点に注がれた。潜水の仕事で独り立ちし、自分を認めさせてやる。それが憤怒する吉田の基本的な考え方だった。仕事を取り、人を雇い、給料を支払い、新たな現場の勉強も怠らなかった。

 

 気がつけば、たった一人で始めた会社がすでに従業員は十五人くらいまでになり、何隻もの船を所有していた。そればかりでなく、個人としても車や一軒家を買うことができるまでになっていた。母親に金を握られては口論になっていた頃の吉田の姿はもうなかった。そのことは吉田に少なくない自信を与え、それがさらなる加速を生んだ。

 業界の慣例を打ち壊し、それまで長年同じ会社が請け負っていた仕事を吉田が破格の値段で請け負って、自分のものにしたりした。ライバル会社には五十代、六十代といった自分の父親と同じくらいの年齢の、経験豊富な社長たちがいたが、鋭いツノで下から突き上げるように彼らを脅かし、保守的な建設業界を覆すように次から次へと仕事を取っていった。怖いものなどなかった。

 根源にあった、怒気を含んだ内なるマグマのような怒りは尽きることがなかった。それは若かりし頃に船の上で先輩作業員の胸ぐらを掴んだあの日から放出され続けてきた、名づけようのないエネルギーであった。

 

 ただ、少なく見積もってもそのような生き方は、傍目には過剰な自信に映ったはずだった。もともときつかった浜言葉にいよいよ磨きがかかり、会う人会う人とほとんどケンカ越しで接するようになった。気に入らないことがあると「お前の会社を潰してやる」と暴言を吐いたことも一度や二度ではなかった。そのせいで敵もたくさん作り、陰口をたたかれたり嫌がらせをされることも少なくなかった。

 ある時は岸壁に船を係留していると知らないうちにロープを外され、代わりに知らない船が係留されていたこともあった。その時吉田の船はアンカーに繋がれたまま港の中で漂流していた。また別の時は、車を止めて会社に打ち合わせに行き、商談を終えて帰ってくると車の外装に引っかき傷が一周していることもあった。

 あるいは吉田の船に煙突から水が入れられていたこともあった。そのせいでエンジンが壊れ、数十万円を支払ってオーバーホールしなければならなかった。

 成功した吉田を誰かが妬んだだけかもしれなかったが、高圧的な態度が恨みを買った可能性も少なからずあった。だが吉田はそれでも「若いうちは生意気くらいでなければいけない」と考えていた。吉田が自分自身を省みるようになるのはもっと後のことだった。

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