5 閖上海水浴場

 

 1

 

 破産してからというもの、吉田は悶々としていた。最初のひと月は本当に何もせず、2か月目になってようやく何かをしようかと考え始め、3か月目にやっと営業に行くことを考え始めた。介護の仕事をしていた美香に生活の面倒を見てもらいながら、ノートに今後の計画をあれこれとメモしたりして毎日を過ごしていた。

 どこかに勤めようかということも頭の隅にあったが、一度自分で会社を経営してしまうと、いい仕事のチャンスが巡ってきたときにも抜けられないということが煩わしくも思え、結局就職には二の足を踏んでいた。

 美香はそんな沈滞する吉田をどうにか元気づけようと、外に引っ張り出した。新しい男の子が生まれてからは、どこかに出かけるといっても近くの公園に行くくらいだったこともあり、「もともと海で働いていたのだから、海でも行こうよ」と、新しく海水浴場ができた閖上のビーチに誘った。

 

 閖上の海水浴場はゆるやかな弧を描く長い砂浜が名取川にぶつかったところにささやかに設けられた小さなビーチだった。八月のよく晴れた午後のことで、カップルや家族連れが東北の短い夏を楽しむ姿に、吉田たちも心なしか浮き立った。

 だが、閖上海水浴場に入ろうとすると、意外にも砂浜の手前で係員に止められた。

 「いま事故処理中なので立入り禁止です」

 言われてみれば上空にはヘリコプターがバラバラと音を立てて飛んでいた。誰かが行方不明になり捜索をしているようだった。

 管理棟に行くと顔見知りがたくさんいた。海上保安部、警察、消防など、それまで吉田が携わった引き上げの現場で一緒に仕事をした面々だった。その中の誰かが吉田を見るなり「やってもらえばいい」と言い出した。駆けつけていた市長も直々に手伝って欲しいとのことだった。

 

 正直なところ、せっかく遊びに来ているのに面倒だなと思った。ただ知り合いに頼まれて、無碍に断るわけにもいかず、試しにどんな捜索方法をしているのかを聞いた。ヘリコプターや船が出され、空と海の両方から海面の捜索が行われているほか、陸からの目視を行われているようだった。ただその捜索方針には海水の流れが考慮されていなかったし、何よりも人がいなくなった場所も定かでなかった。

 

 やがて海水浴場の平面図が持ち出され、事故の状況説明が始まった。事故が起きたのは海水浴場に貼られていた遊泳区域を示すロープの付近で、若い男性三人が遊泳ロープに摑まって溺れかけていた。それに気づいた四人のライフセーバーが泳いで助けに向かい、溺れかけていた三人のうちの一人を救助した。だが、本来なら溺れている残りの二人のために誰かがそばに残っているべきところを、四人全員で一人を連れて浜辺に戻ってしまった。そしてもう一度救助のために海に戻ったが、残りの二人は既にいなくなっていたということだった。

 目撃者が少なくとも四人はいた。だが吉田が話しを聞く限り、行方不明者の捜索としては難しい状況だった。というのも残りの二人がいなくなった位置はおおよそわかっていたとはいえ、確かな証言とは言えなかったからだ。吉田が捜索をする上では、たとえば「遊泳ロープの三個目の玉のそばだった」というような、はっきりとした位置の証言がほしかった。

 

 曖昧な証言から捜索方針を導き出さなければならなかった。閖上港の防波堤は、付け根から二百メートル前後で曲がっている。男性たちがその曲がり角を境に内側で落ちていれば、防波堤のテトラポット側に打ち寄せられているだろう。だが、もし曲がり角の外側であれば沖の方に流れる可能性もある。そして落ちた時間帯の潮流を潮汐表から割り出すと、不明者が流れていった方角はそれらの二つの可能性のあいだの微妙なラインに位置していた。

 もしテトラポットの中に吸い込まれていれば、吉田としてもその隙間に入っていくことは難しかった。二次災害の危険があるからだった。狭いテトラポットの間は、局所的に水流が速く、吉田自身が吸い込まれて出られなくなってしまう可能性があった。だが、もし沖の方に流れているのであれば、そのうち海面に浮かんでくる可能性はある。いずれにしても「ここで落ちた」と確定している場所がないのだからやみくもに潜っても仕方がないと思えた。

 そこで吉田がとった方法は、大潮の最干のときにテトラポットのあいだを歩いて目視するというものだった。また沖の方に流れる可能性も考慮して、沖に保安庁の巡視艇と消防と警察のヘリコプターを出動させることにした。

 そしてこのような予想もしていた。夏は水温が高く、腐敗の進みが早いだろうから、身体にガスが溜まるのも早く、浮かんでくるのに二十七日はかからないだろうと。

 

 だがこの捜索方針が思わぬトラブルを引き起こすことになった。遺族の怒りを買ったのだ。夜間に吉田がドライスーツを着てテトラポットの間を捜索し終え、ひと休みしていると大勢の遺族たちとすれ違った。本来ならば捜索現場は立入り禁止だったが、遺族ということで特別な配慮がなされた結果だった。その中のひとりが、たったひとりで捜索していた吉田のことを見て言った。

 

「こんなのが捜索なのか。もっと大々的にやらないのか。」

 たった一人で捜索をしていたことが不満だったようだ。あるいは捜索というと、テレビニュースで見るような何十人という体制を想像したのかもしれない。吉田は、自分の捜索方針を説明し、テトラポットにひっかかっていれば、潮位の下がったときに見えるし、そうでなければ浮いてくるだろうと言った。

 だが家族の男性は潜ってみて欲しかったのだろう。「こんなので見つかるのか」と声を荒げ、「お金を払っているのだから潜ってもらわないと困る」と言った。

 

 もちろんお金を払っているから潜るとか、お金が安いから潜らないとか、そうした区別はなかった。むやみに潜っても、テトラポットのあいだでは危険だし、二次災害のおそれもあった。砂が舞い上がっているだけで、捜索にもならないと説明した。潮が下がったときに歩いて探して、そこで見つからなければ浮いてくるのを待つしかない。必ず上がってくるからと。

 すると男性は「そんなの必ずと言いきれるのか、このやろう」とけんか腰になった。吉田もムキになっていた。じゃあ、あんたたちできるのかい?おれはプロだよ。毎回同じように言われるが、その都度見つけて何十体もあげてきた。あんたたちでできるなら自分たちでやれよ。任せるのか、任せないのか。任せるなら最後まで任せるのか。

 「よし、約束だからな。絶対見つけろよ」

 

 それから数日後に釣り人から通報があり、男性二人が相次いで見つかった。一体はテトラポットに打ちつけられており、もう一体は数日後に沖の方を流れているのを発見された。水温が高かったため、二体ともふやけて溶けていた。

 喧嘩腰になった男性は「吉田さんの言った通りでした」と言ったが、「そうですか」とだけしか言えなかった。胸の内には虚しさが残った。遺族が声を荒げる理由は手を抜いて欲しくない、ということであっただろう。あるいはとにかく早く見つけて欲しいという焦りであったかもしれない。そうした願いはその男性に限らずどの家族にもあったし、吉田自身が同じ立場だとしたら同じ気持ちになっただろう。ただそう分かっていても、遺族との言い合いは吉田の心をすり減らせるものだった。

 

 ただ、吉田はこの捜索によって、改めて関係者に認められることになった。特に市長から直々に「海水浴場の警備に当たって欲しい」と頼まれたことは大きかった。市長としても、今年から海水浴場を始めて街を盛り上げていこうという矢先の海難事故に不安を拭えなかったのだろう。これによって吉田はその年の残りの夏と、翌年からの六年間の海水浴場の警備と運営に携わることになった。

 

 

 2

 

 

 吉田が警備の主任として赴任することになった閖上の海水浴場は決して大きなものとはいえなかった。もともとあった岸壁とサイクルスポーツセンターに挟まれた場所に後から作られた、幅が二百メートル、奥行きが七十メートルほどの小さな遊泳場でしかなかった。海水浴客が二千人も入ってしまえば、砂浜はすぐに人でいっぱいになった。

 ジュースやかき氷を売るいくつかの露店や、砂浜の脇まで車を寄せることのできる駐車場があり、小さな閖上の町に似つかわしく、こぢんまりとした落ち着きがあった。

 緩やかな弓なりの砂浜に沿うように松林があり、梢を抜ける風がさわさわと涼しげな音を立てる。振り返れば木立のあいだに遠い蔵王連峰がうっすらと見え、ときおり仙台空港の滑走路を飛び立つ飛行機のエンジン音がうなり、やがて沖の彼方へと消えていく。そんな海水浴場だった。

 

 初年度に事故が起きてしまったことの反省を踏まえて、市も海水浴場の運営体制を新たに立て直さなくてはならなかった。より安全な体制を構築する必要があった。吉田が閖上での捜索に一役買ったことが直接市長に知れ渡ったこともあって、それまで人命救助も行っていた経験を買われ、吉田は海水浴場の管理を任されることになった。

 

 最初はひどいものだった。吉田が赴任した時、安全管理の備品として準備されていたものは海水浴客の命を守るものとしては到底不十分だった。

 ケンウッドのトランシーバーが二つとプラスチックの双眼鏡が三つ。おもちゃのような拡声器がたった一つだった。さらに安全管理の備品を一万円の予算で拡充して欲しいとのことだったが、当然のことながらそのような予算では何もできなかった。

 吉田は「こんなことではまた犠牲者が出るぞ」と訴えながら、市側と交渉し安全管理体制を拡充していった。遊泳ロープの範囲を狭くし、奥行き100、幅150メートルの小さな海水浴場にした。このことによって、危険な事故が起きてもすぐに救助に当たれるようになった。アルバイトを雇い、救護班と警備班に分かれて水陸の両面の警備に当たる体制も作った。遊泳エリアを三つに分け、救護班はドライスーツを着て沖の方を回遊し、海水浴客に異常があれば、すぐに泳いで救助に向かうことができるという具合だった。

 実際のところ、救助が必要な場面は少なくなかった。ひと夏の間に海水浴場を開くのは、時化などで開催できない日を除くとトータルで二十五日程度になったが、ほぼ毎日のように何かしら起きていた。中には自力で泳いで戻れるレベルのものもあったが、助けに行かなければ溺れてしまうというものや、沈んでしまって手しか見えない、というのもあった。

 

 吉田は当初、この海水浴場の仕事が好きだったわけではなかった。むしろ、どこか軽んじているところさえあった。

「じじいでも連れてきてやればいい」

 自ら危険を冒して海に潜る潜水の現場や不明者の引き上げの現場で四六時中緊張にさらされていたことに比べれば、たしかに閖上の小さな浜辺はのんびりとした雰囲気があった。だが一番には吉田の覇気が失われていたことが大きかった。破産してからというもの、あらゆる物事をどこか斜に構えて見るようになっていた。

 加えて、集まってきた若者たちにも覇気がなかった。

 「友達に誘われたから」

 「女の人、いっぱい来そうだったから」

 「金貯めて旅行に行きたいんです」

 アルバイトに応募した理由がそれぞれに若者らしかったという点はまだ良いとしても、海水浴場の警備が人命に関わる重要な仕事であるということを自覚している者はほとんどいなかった。さらに海水浴場が始まってからも「彼女に振られて、やる気がないので休みます」と呆れるようなことを言っている者も中にはいた。

 なかば人生にふてくされていた吉田がそんな若者たちに何かを期待するはずもなかった。何の苦労もしていない若者には元気くらいしか取り柄がない。そう思った吉田は「とりあえずちゃんとやれ、人の命を守るのは大変なのだから」とハッパをかけるくらいのものだった。

 そんな具合だったから、初年度は覇気のない大人が覇気のない若者に指示を出しているという、ある意味では危うい現場となった。

 だがこうした膠着状態を破ったのは吉田ではなく、意外にも覇気のなかった若者たちの方だった。当初、あまり期待を寄せていなかった吉田だったが、それでも入ってきた若者たちに一から色々と教えなければ仕事にならない。目上の人にはしっかり挨拶をしろ、子供には立って喋らず、しゃがんで子供の目線になれ、といったことから、ゴミ拾いや忘れ物の確認、救助体制と準備などだった。

 すると中には相変わらずやる気のない者もいたものの、一部の若者がやる気を出してきびきびと動き出した。何かひとつ指示を出すたびに「はい!」と元気良く答え、わからないことがあれば素直に「どうしたらいいんですか?」と聞いてきた。それは久しく見ていなかった若者の清々しい姿だった。  

 そこにいた若者たちが一般的な若者と比べて特別だったかといえば、そうではなかったかもしれない。ただ人に出し抜かれて破産を経験するまでのあいだに、吉田は人間に対する猜疑心を大きく膨らませていた。そんな吉田にとって、ごくふつうの若者たちの純粋さがまぶしく映ったとしても不思議ではなかった。そしてそれは吉田の心にも変化をもたらした。若者のやる気に引っ張られるかたちで、吉田も徐々にやる気を出し始めたのだ。

 「若えやつがやる気になっているのに、自分だけふてくされていてはいけないな」

 

 すると運営にも力が入り始めた。とりわけ、海水浴場の運営を取り仕切っていた漁業組合の面々が現場に来なくなり、吉田が主任として実質的な運営を任されるようになった3年目以降は、裁量によって独自のカラーを出していくことが可能となった。

 ビーチに砂を盛ってステージを作り、DJを連れてきたり、地元のロックバンドに演奏をさせたり、あるいは海水浴客にリクエストを聞いて、流行りの曲をかけたりもした。

 場内アナウンスも、工夫のしどころだった。管理棟の屋根に登って双眼鏡を覗くと砂浜の海水浴客の動きがよく見える。中には羽目を外して遊泳禁止のエリアへ出たり、沖に張ってある浮きやロープを触りにいってしまう人もいた。彼らに注意を促すのも吉田の仕事だった。最初は普通に標準語で「ロープより沖には行かないでください」などとアナウンスしていた。ところが、ある時、吉田が忙しくバタバタしているときに、うっかり女川の訛りのままマイクで喋ってしまったことがあった。

 「そっちの方さ、いぐな。こっちさ戻ってきてけろ」

 これが意外と客に好評だった。閖上のビーチには宮城県内はおろか、秋田や山形、福島などからも客が来ていたが、みな自分自身の方言を持っている地域からの客が多かった。そのこともあって、つい方言が出てしまったことが共感と温かみを生んだのかもしれない。

 それからというもの、吉田はこのアナウンスをもっと面白いものにできないかと工夫を重ね、磨きをかけていった。

 「すいませーん、沖の方の黄色い浮き輪の方、聞こえますかー。沖のロープに触って帰ってきても景品出ませんから、やめて下さーい」

 これもイントネーションに微妙な訛りを含ませる。するとそれを聞いた他の客たちが面白がって「景品は出ねえのか」とざわめく。沖まで行こうとしている客も、大概は仲間うちで目立とうとしてやっているのか、注意されて恥ずかしい思いをしながらも半分喜んでいるということになる。あるいは、浮き輪をつけたカップルが沖の方に行ってしまった時はこんな呼びかけをした。

 「そちらの水色の浮き輪の方と、ピンクの浮き輪の方、聞こえますかー、聞こえたら手を振って下さーい。はい、二人で仲いいですね。そのまま手を繋いで足のつく範囲まで戻って下さいねー」

 するとカップルははにかみながら戻ってくる。通りいっぺんのつまらない注意だと客も気分を害するだけだが、他の客たちに注目させるとみんな笑いながら戻ってくれるというわけだった。楽しさと安全を両方目指した結果だったが、次第に海水浴場のちょっとした名物パフォーマンスのようになっていった。

 

 

 海水浴場の警備の仕事に愛着を感じはじめると、アルバイトの若者たちに経験を積ませ、彼らを育てようという気持ちも起きてきた。若者たちにとって海水浴場は良い経験になるだろうと考えていたのだ。

 最初のうち、夏の初めにアルバイトの若者を雇うのは吉田の役目ではなかった。市役所の職員が面接をして「彼らを使ってください」と任されるに過ぎなかった。入ってくる多くは地元の学生だったが、中には定職につかないでフラフラとしている者もいた。吉田がとりわけ気にかけていたのは、そうした覇気のない若者だった。

 ただ、その覇気のなさとは、吉田自身が破産したことによって味わっていた覇気のなさとはまた違った、どこかつかみどころのないものだった。吉田の覇気のなさとは、根本的には人間に対する不信から来ていたが、彼らにはそうした人を疑うような影はなかった。むしろ、吉田の言うことをよく聞いた。「朝起きるのが辛い」と言って遅刻してくるような頼りなさはあったものの、決して根が不真面目だということではなかった。むしろ性格はまじめなのだが、物事に執着がなく無気力ですぐに何かを諦めてしまう。そしてどこかで自分自身を低く評価しているようなところがあった。

 ある時若者の一人が吉田の車を見て「吉田さんはカッコいい車に乗っていていいですよね」と言ったことがあった。吉田は若者を励ますつもりで、「みんなだって頑張って仕事すればこういう車も乗れるし、好きなものだって買える」と言った。

 ところが返ってきたのは「いやあ、うちら就職できるかもわからないですし。それよりあんまり無駄遣いしないで、少し食べられる分だけあればいいかなって思うんです」という言葉だった。

 まさに「のれんに腕押し」といった感じだった。吉田の手前、若者なりに謙遜してそんな言葉を吐いたのかもしれなかったが、その謙虚さも含めて、吉田には若者達がどこか小さくまとまってしまっているように思えた。あるいは何か一つのことに取り組んで達成感を覚えるような経験に乏しいようにも映った。

 

 そうした頼りない若者たちに、人命に関わる重要な仕事を任せ、あるいはどうすれば客に喜んでもらえるかを考えて実行させる。それはまだ経験の少ない若者たちにとって、よい刺激になるはずだった。実際彼等が従事したのは、こんな仕事だった。

 小さな海水浴場を三つのゾーンに区切り、ドライスーツを着た「海班」にそれぞれのゾーンの沖を回遊させる。沖を回遊するポジションは1時間ごとの交代だったが、潜水用のドライスーツを着ていれば、その浮力によって、長時間泳いでいることはさほどきついものではない。加えて陸上班は二棟の監視台の上からビーチの全体を見渡す。さらにビーチの上にも椅子を三つほど置き、そこにも人を配置した。

 無事故無災害を目標に掲げ、初年度の海難事故を引き合いに出して、「いい加減な気持ちでやると人の命に関わるのだぞ」というと嫌でも緊張感が出てくる。実際のところ毎年、初年度の事故の命日になると、花束と線香を持って海辺を訪れる両親の姿が見られ、華やいだビーチにある種の緊張感をもたらした。

 人命を守るだけでなく、客に対して喜んで帰ってもらうことも徹底した。

ある時は若いカップルのうちの女性が、誕生日に恋人と一緒に買いに行った思い出の指輪を砂浜に落としてしまい、泣いていたことがあった。その時はすぐに大人数で細い熊手を使って砂浜の上をくまなく探させた。

 「どこらへんにいましたか?」

 「シャワールームまで歩いて行きました」

 「よし、シャワールームまでの道沿い、みんなで探せ。熊手持ってきて。オレらこの辺探すから」

 程なくして誰かが「ありましたっ」と声を上げる。

 「すいません、これです」

 女性は感激したのか、わざわざ一回帰ってジュースを山ほど買ってきてくれ、それをみんなで飲んだりした。人のために役に立ち感謝されるという体験は、小さなことであっても若者を生き生きとさせ、一生懸命取り組む姿勢を育んだ。

 

 あとは楽しくやった。もともと海が好きで集まってきた者ばかりだった。楽しくなければ意味がなかった。吉田も一緒になって楽しんだ。泳ぎたくて仕方ない若者たちも、客が来ている間は泳ぐことができない。そこで夕方に客が掃けるのを待って言う。

 「主任、泳いできていいですか」

 「おお、いいよ。泳いで来い」

 「やったあ」

 みんなが泳いでいる三十分くらいのあいだ、吉田は管理棟で帰らずに若者たちを待った。

 「どうだ」

 「いやあ、やっぱり海はいいっすね。でもあそこの玉はずれてましたよ。あとこっち深くなってました」

 「じゃあ、そこ気をつけなきゃいけねえな」

 するとみんなも「そうだな、気をつけなければな」となり、それがまた次の日の警備に役立ってくる。

 「主任、音楽聞いていいすか?」

 片付けの合間に誰かがそういえば、「おう、みんなにも聞かせてやれ」と言って、管理棟の内部スピーカーだけでなく、砂浜全体に聞こえるようにスイッチを切り替えて流してやった。掃除をしながら「お、この曲知ってる」などと盛り上げっている若者を見るのも、それはそれで楽しかった。

 他にも海水浴場にやってくる珍妙な客たちを見るのも、密かな楽しみの一つだった。海に入っていって水着が流されてしまい、あがって来れなくなった女の人や、「着替えは更衣室でして下さい」と言っているのにビーチのど真ん中で素っ裸になる女の人。水着も着ないで泳いでいる男の人もいた。そんなおかしな客を見つけるたび、若い警備員と一緒になって管理棟の中で密かにはしゃいだりした。

 水着の後ろと前が逆になっている女の人を見つけ、女子学生の警備員を呼んで「水着逆だから教えて来い」と指示を出した。だが女子学生も恥ずかしがって「これは言えない」などと笑ったりした。

 

 ただ、ビーチにやってきたのは思わず笑ってしまうようなおかしな客ばかりではなかった。ある年の夏の夕方、閉場間際に正門からトランシーバーの連絡が入った。

 「障害者の方がどうしても海が見たくて来たんです。人がいなくなってからと思って来たらしいんです。どうしますか。」

 「わかった、入れろ」

 お父さんとお母さんと、車椅子に乗った十三、四歳くらいの男の子だった。男の子は筋ジストロフィーという、筋肉が萎縮してしまう病気だった。両親がワンボックスカーの中から車いすを出し、駐車場の砂利道まで押して来ていた。

 まだ明るかったが、太陽が傾いて遠い蔵王の峰々が美しい夕焼けに染まり、海の景色を楽しむにはちょうどいい時間だった。だが砂浜の手前からでは管理棟や店が視界を遮り、肝心の海が見えなかった。監視台の監視員を呼ぶと、吉田は太いタイヤのついた砂浜用の車いすを持って来させ、砂浜に連れてくるように言った。

 監視員たちが「こっちの車いす乗って下さい」と促したが「時間も過ぎているから」と両親は遠慮した。

 「いや、大丈夫です。それまで海水浴場開けていますから」

 吉田が言うと両親はそれではと、砂浜用の車いすを押しはじめた。そのまま波打ち際まで行き、ちょうど少年の素足が海水に浸るところで車いすを止めた。

 「海だよ。よかったね、入れてもらってね」

 少年はじっとしていて動かなかった。ただ目だけが何かを感じているようだった。不意に母親が話し出した。

 「どこの海水浴場行っても、人がいなくなるまで待ってこっそり行っていたんです。こういうふうにわざわざ門を閉めないで、開けてもらって、警備の人に付き添ってもらって海に来たことなんてないんです…」

 吉田はしばらくの間、お父さんとお母さんと少年の3人だけにしてあげたあと、写真を撮ってやり「是非また来て下さい」と言って帰した。

 彼らが再びやってきたのは翌年の夏だった。ただしその時、車いすの少年はいなかった。聞けば吉田たちと海で会った数ヶ月後の十一月に少年は亡くなったとのことだった。そのときに撮ってやった写真を出すなり、母親はつぶやくように言った。

 「生きているうちにもう一度来たかったけど…。どうしても病気の進行が早くて来られませんでした。あのときはどうも。またすぐに来られると思ったんですけど、なかなか来る気になれなくて」

 少年がやってきた翌年から、話を聞きつけたのか、なぜか障害者の団体の問い合わせが多くなった。車椅子で入れる海水浴場というのが他にそうたくさんあるわけではないらしく、それからというもの閖上の海水浴場には障害者が団体で訪れるようになった。

 

 警備のアルバイトの若者たちも次第に変わっていった。最初は覇気のなかった若者たちも彼らなりに仕事に誇りと責任感を持つようになっていった。吉田が新しい警備員を探しているといえば、若者たちが自ら「この友達はいい加減だからダメ、この友達ならしっかりしているからいい」というふうに、警備に相応しい友達を選んでいった。

 吉田はそれを見て「いいんだよ、誰を連れてきたって」と言ったが、「いや、いい加減なやつ連れてきて、もし事故とか起きたら大変ですから」と言った。

 当番が休みの日にもかかわらず、彼女を連れてきて「手伝っていいすか?」と聞いてくる者もあった。「何も出ねえぞ」と言っても聞かない。どうやら自分が頑張っている海水浴場の警備のことを彼女にも見せたいということのようだった。

 

 夏が終わる頃、プレハブの管理棟や監視台とサウンドステージが全て撤去されると、閑散とした元の砂浜に戻った。なんとなく寂しい雰囲気になった。

 「今年の夏も終わったなあ」

 「来年もやるんですか?」

 そんな言葉が聞かれる頃にはだいぶ皆の顔つきも精悍になっていた。日焼けをしたのはもちろんのこと、自信ややりがいを味わったためか、自然と晴れやかな表情になっていた。

 ある時は警備のアルバイトを続けたひと夏の間に大きく変わった高校生を見て、クラスの担任に「吉田さん、どんな指導をしたんですか」と驚かれたこともあった。彼らはのちに消防士、看護師、土木作業員とそれぞれの道に進んだが、翌年の夏になると時間を見つけては顔のぞかせ、「できるならまたやりたいんです」と言いながら、新しく入ってきた若者たちの面倒を見たりもした。

 

 

 3

 

 

 二〇一〇年になり、そうして吉田が海水浴場に携わるようになってから五年が過ぎようとしていた。無事故が長らく続き、運営も軌道に乗ってきた。

春先になると定期的に幾つかの場所で砂浜の深さを測り始め、その年の砂の流れを把握する。砂の流れ方によって、その年の遊泳区域が決まる。それを元に遊泳区画の整理、サウンドステージの構築などを次々とこなしていく。そしてその年も同じように若者たちを集めて警備員を育てようとしていた吉田のもとに、主濱という一人の若者が入ってきた。

 色白で肉付きが良く、どことなく大人びてはいたものの、口数も少なく海辺で活躍するライフセーバーとはかけ離れた、どちらかといえばインドアなイメージの男だった。そしてその吉田の印象は、少なくとも間違ったものではなかった。

 主濱は地元の農業高校を卒業してから建築関係の会社に就職したがすぐに辞め、それから見つけた車屋の仕事も続かず、何をするでもなく実家にいる、そんな覇気のない生活を送っていた。

 昼間は家から出ることもなく家でゴロゴロとしていたが、夜になると気心の知れた何人かの仲間が学業や仕事を終えて連絡してくる。彼らに誘われるままに出て行き、あてもないまま車で夜景が見える丘に登ったり、夜の海に釣り糸を垂らしたりした。仕事を辞めてからそんなことを何ヶ月か繰り返していた。

 その主濱が吉田のところに面接にやってきたのは、すでにビーチで監視員のバイトをしていた従兄弟に誘われたからだった。

 「何もしないでいるなら、夏のあいだ、バイトしてみないか?面接があるけど、履歴書もいらないから、とりあえず行ってみようよ」  

 「そうだなあ、何もしてないしなあ」

 主濱はさほど乗り気ではなかったが従兄弟に誘われるままに吉田の家を訪れてみた。

 「お前、今、何やってるんだ?」

 「いや、働いていなくて…。何もしていないです…」

 「これから、どうするつもりなんだ?将来なんかあるのか?」

 「いや、特にないです…。」

 主濱が聞かれるままにボソボソと自分の状況を話すと、吉田は次第に語気を強めた。

 「遊んでばかりでお前、怠け癖がついているだろう。男は働かないと怠け癖がつくから、働かないとダメなんだ」

 あたりまえの正論だったが、主濱にとっては耳が痛かった。

 たしなめられたものの、「お前すぐに講習会に来い」と言われ、採用された。主濱は受かっても落ちてもまあいいか、という気持ちだったので、言われるままに従うことにした。

 それから海水浴場の仕事が始まるまでに約二週間の期間があった。その間に吉田は主濱を飯に誘ったり、会社で買おうとしている車を一緒に見に行ったりした。

 後から考えると主濱が何もしないで家にいることを見かねた吉田が外に連れ出してやろうということだったかもしれなかった。いずれにしても、何度か会ううちに主濱は吉田に親しみを覚えるようになった。

 

 主濱が働かずに一年近くも過ごしていたのは、若くして夢破れてしまったということと無関係ではなかった。

 主濱は小さな頃からクルマが好きで、将来は車の整備士になりたいと思っていた。親がスポーツカーに乗っていたことや、走り屋の若者たちを描いた少年漫画の『イニシャルD』にはまったことも大きかった。

 機械の扱いを学べることもあって、高校は地元の工業高校の農業機械科を出た。とはいえ、農業機械科を出た後、すぐに車の会社に勤めたわけではなかった。卒業後、先生から勧められるままに就職したのは建築会社だった。社会に出たての主濱は「とりあえずこれでいいか」という感じだったが、退屈な資材の片付けや電車通勤が嫌ですぐにやめてしまった。

 建築会社を辞めた後、次は自分の好きな車をやりたいと思い、車関連の会社に就職した。会社の採用面接の時に気に入られたのか、入社すると主濱は社長の下に直接つけられ、「ずっと俺について来い」と言われた。

 仕事が始まると板金、塗装、カスタム、修理などを担当し、車のステレオやスピーカーを取りつけたり、外装のドレスアップを担当したりした。最初は楽しかった。日々新しい車の内装を勉強したり、パーツをいじったりすることで技術を身につけ、手に職をつけている実感があったからだった。

 ただ社長の下に直接つけられたこともあり、厳しく叱られることも少なくなかった。思い描いていたような格好良いスポーツカーだけでなく、あまりパッとしないような軽自動車のメンテナンスもしなければならなかった。やりがいのある仕事ばかりでなく、小間使いのようなこともあった。あるいはわからないことを勉強しようと自分なりに本を読んでもやはり理解できず、結局は社長にきつい口調で怒られてしまうということもあった。

 そうしたことが積み重なり、仕事がだんだんと嫌になっていった。同時になぜか自分が好きだったはずの車自体も嫌になっていた。そして自分自身でもそのことに驚いた。

 「え、おれ、これを目指してやってきたのに、何でこんなに車のこと嫌になったんだろう。もう車のこと見たくない、触りたくもない」

 もちろん、主濱としても社会人として一人前になることの厳しさをわかってはいたつもりだった。整備士という職業が、怒られて恥をかきつつも、少しずつ技量を身につけていく他ない、職人のような世界であると頭ではわかっていた。

 しかし、わかっていても日々社長から怒られ、小間使いをさせられているうちに、忍耐よりも嫌な気持ちが勝っていった。そしてそんな気持ちが積もったある日、主濱は仕事を辞めた。それは「もういいや」という投げやりな気持ちとともに、自分の夢を諦めてしまった瞬間だった。

 

 自分に失望したと言ってもよかった。車が好きだった。小さな子供の頃から夢見ていた車の仕事だった。憧れだった職場で正社員として雇ってもらい、真面目に働いてきた。むしろ待遇としては恵まれていたとさえ言えただろう。

 それなのに怒られたくらいで夢を諦められてしまえたのか。結局は簡単に捨てられる程度の夢だったんだな。そう思った時、結局は覚悟のない、浅はかな夢にすぎなかったのだと悟った。

 何もかもやる気がなくなっていった。車屋をやめても目指すものもやりたいこともなかった。周りを見渡しても良い話はなかった。両親は主濱が小学校三年の時にすでに離婚していて、父とは離れて暮らしていた。女手一つで主濱を育てていた母親も、裕福であったとはいえず、むしろ苦労しているようだった。

 

 それなりの人生。そんな言葉とともに、主濱は若くしてどこかで自分に見切りをつけていた。働く気もなく、やる気もなかった。いつか働くとしても食える分だけ稼いで、そのままなんとなく人生が終わるのかなと漠然と考えていた。それからというもの、主濱は実家にいるようになり、新しい仕事を探すでもなく、覇気のない生活を送っていた。

 世間で言えば、いわゆるニートという状態だった。保守的な田舎の港町では、いきおい風当たりも強くなった。主濱のことを知って、離れていく友達もいれば、「お前働いてないのか。バカじゃないの」と見下してくる友達もいた。「友達ってこんなものなのか」という思いが、主濱に孤独な気持ちをもたらした。

 もちろん変わらず接してくれる友達も何人かはいた。働いていなければ金もなく、何もできない。にもかかわらず遊んでくれて、飯をおごってくれさえした。

「お前、これからどうすんの?」

「何すんのかなあ…。なるようにしかなんねえ」

「そうかあ。でも、いいんじゃね?今のうちにフラフラしたらいいんじゃねえ?」

 そんな軽い受け答えに居心地の良さを感じた事もあった。彼らに助けられているのだなと思えた。

 

 離れていく人もあれば、助けてくれる人もいる。仕事を辞めたことによって、ある意味で主濱には人間関係の本質が見えてきつつあった。主濱は日常生活において、表面上は誰でも同じように接した。だが心の底では二種類の人間がいるのだなと思いながら、彼らを一つの線で区切らざるをえなかった。

 その一線とは、金や身分や立場を超えて同等に付き合えるかどうかということだった。端的に言えば純粋に一緒にいて楽しいか、あるいはそうでなくとも、話したいと思える相手かという境目だった。

 

 当時の主濱にとって、ほとんどの大人たちはその境目の「向こう側」にいる存在でしかなかった。ふとしたはずみで会話が無職でいることや将来のことに及ぶと、通り一遍の説教をされてしまう。要するに、仕事を見つけて一生懸命働け、と。

 彼らの正論はまさに「その通り」なのだが、結局は自分が非難されて終わってしまう。それ以上の人間関係に発展することは稀だった。なるべくなら大人たちと関わりたくはないな、というのが本音だった。

 

 

 やがて海開きとともにアルバイトの日がやってきた。吉田が主任を始めてから6年目の夏で、それまでの5年を無事故で終えることができていた。

 その年の夏に集まった面々には、普段からサーフィンや水球に親しむ学生など、活発な連中が集まっていた。吉田は毎年やっているように、彼らの中から泳げる者、動ける者を警備の中心に据え、警備体制を組んだ。

 ただ主濱が回されたのは、ロッカールームとシャワー室の簡単な管理と金の勘定だった。それはほとんど体力を必要としない、裏方の仕事だと言えた。

先立って行われた安全講習で、非常時の心肺蘇生などを習う機会があったのだが、その時に「泳げる人、泳げない人」と申告する機会があり、主濱は「泳げないです」と申し出たためだった。

 主濱はトイレとロッカーとシャワー室の間に椅子を置いてそこに座り、客が来たら「一回百円です」と金を取る役割に回った。他にもトイレやロッカーの掃除をしたり、トイレットペーパーの交換をしたりというのも仕事のうちだった。主濱はそれを淡々とこなしていった。

 その夏の間、一度、吉田が全員を集めて怒ったことがあった。1日のうちに溺れそうな客が立て続けに現れ、さらに陸上でも熱中症で倒れる客が相次いだ。しかし全体として全く対応ができておらず、みんなパニックになっていた。

 「お前ら何やってんだ!意識が低い」

 吉田が檄を飛ばしたが、救命の担当外であった主濱は「大変そうだな」と思いつつも、それを少し離れたところから見ているという具合だった。

 

 一つだけ変わっていることがあったとすれば、それは他の面々は「八時前に来い」と言われていたのに、主濱だけがなぜか「六時前に来い」と言われていたことだった。それは初日から始まり、次の日も、その次の日も続いた。

 主濱は「どうして俺だけ早いのだろう」と不思議に思ったが、吉田も理由を言わなかったし、自分は何か不満を言えるような立場でもないと思った主濱も、特に訊ねたりはしなかった。

 吉田としては二つの狙いがあった。一つは金がないと聞いていたため、少しでもアルバイト時間を長くしてやり、賃金を払ってやろうということ。もう一つはそれまでの怠け癖のようなものを取り除くために、少しでも早起きをさせようと思ったのだった。

 いずれにしても毎朝、6時前にはビーチに着き、門の前で待っていた吉田と一緒に中に入っていくというのが主濱の日課になった。とはいえ、朝早く海に来ても、特に何かをしているというわけではなかった。吉田は事務所を開け、ラジオを付け、椅子に座って沖を眺めていた。遊泳できるかどうかを判断しているのだった。特に忙しいというのでもない。

 「昨日、どうしてたのや?」

 いたって普通の会話が淡々と続いていった。それがひと夏のあいだ続いた。

 

 そんな合間に、主濱は吉田に自分の家庭環境のことを話したことがあった。ふだんはあまり人には話さず胸の内にしまっていたが、主濱には両親が離婚してしまい、母親に育てられた過去があった。あるいは家庭における金のトラブルのようなことも経験していた。それらの話を吉田に対して積極的に相談したというわけではなかったが、吉田が根掘り葉掘り聞いていくうちに、なんとなくそんな話題になった。そして最終的にこんなことを言った。

 「子供ってのは、親を選べない。それは宿命なんだ」 

 吉田の頭には、どこかに「おめえの母ちゃんが死ぬまでおめえは良くならねえ」と言って亡くなった叔父のことや、忌々しい母親への蜂起の日々や、それらを飲み込んだ上で「親子なのだからいつかはわかりあえる」と信じたい気持ちの揺らぎのようなものがあった。そしてその肉親関係の分ちがたさ、逃れようのなさを「宿命」という言葉で少しでも伝えたかった。

 だが吉田の言い方には含まれた、意にそぐわないことも受け入れることが必要なのだ、という響きは主濱がどこかで期待していたものとは違っていた。

 「えー、宿命で終わりなのか」

 主濱は内心そう思った。当時一人暮らしをするなどして、なんとか親との適切な距離感を模索していた主濱にとって、吉田の言い方はある意味で身も蓋もなかった。少なくとも具体的な解決策ではなかったし、あまりアドバイスらしいアドバイスとも映らなかった。

 とはいえ、センシティブな話題に吉田が一定の理解を示してくれたことは主濱にとっても悪いものではなかった。それにその後の主濱にとって、やはり宿命という言葉に納得せざるをえない出来事に出くわすことにもなった。その意味では吉田が投げたボールは時間をかけて主濱の心に着地していくことになるともいえた。

 他にも吉田は色々な話をしたが、総じて主濱には新鮮に映った。ある時は、吉田は自分の夢を語った。

 「どんな仕事になるかわからないが、成功して、ビルを建てて、そこで会議をする。そうしたら第一にお前を呼ぶからな」

 吉田はすでに前の会社を潰していたし、この頃も海水浴場の主任をする以外には一人で潜っているという具合でいたため、主濱にはいったいどのようにその夢が現実になっていくのかわからなかった。いや、実のところ吉田自身にもはっきりとはわかっていなかった。だが、型やぶりな吉田の勢いのようなものだけは主濱に伝わった。また吉田はこんなことも言った。

 「お前は人にないものを持っている。気付いていないだけ、やっていないだけ。お前には能力があるんだ」

 主濱はそう言われて嬉しくないこともなかった。だがいったい何を根拠にそう言っているのかわからなかったし、その「人にはないもの」というのも、よくよく話を聞いていくと、結局は自分で見つけなければならないという、いわば謎かけのようなものらしかった。

 ただ、そうした話の積み重ねは、当時「それなりの人生」としか思えなかった主濱自身の将来に、何かの可能性のようなものを感じさせるには十分だった。

 「この人についていけば、もしかしたら自分が変われるのかな、何かが見えてくるのかな」

 その年の夏が終わる頃、主濱はどこかでそんな気持ちを抱き始めていた。

 

 

 

 

 

 4

 

 

 吉田を慕ってきた若者たちの多くは、現代の若者らしく、その若さをもてあましているようなところがあった。主濱のように引きこもりがちになるか、あるいは少しばかりの酒やタバコを覚えて羽目を外してみるか、表面的な違いこそあれ、大なり小なりどこかで自分を探していることに変わりはなかった。

 ただ、中には稀にはっきりとした夢を持っている者もいた。主濱の翌年にやってきた沼田という男がそうだった。その沼田青年の夢とは高校を卒業して自衛官として就職することだった。「夢を持って稼がなきゃダメだ」とことあるごとに言っていた吉田にとって、夢を持った沼田の存在は新鮮に映った。

 

 「アルバイトしたいの?」

 「はい。俺も頑張りますんでよろしくおねがします。」

 友人の渡辺に紹介されて入ってきた当初の沼田の印象は、「いたって普通の青年」だった。髪を染めて目立とうということもなく、言葉遣いも丁寧で真面目な印象を受けた。やんちゃな若者も多い中で、少し埋もれてしまうのではないかというくらいだった。だが沼田が毎日海水浴場に通うようになって吉田が気づいたことは、その真面目さがむしろ際立って見えはじめたということだった。

 紹介者の渡辺が「ちょっと変わったところのあるやつなんです」と言った通り、沼田には世間慣れしていないような固さがあった。それは言われたことは脇目も振らずにのめり込むようなばか真面目さだとも言えた。

 ある時、海水浴場の運営が終わった後、スタッフみんなで花火をやろうということになった。周りの連中は早く花火をやりたくてうずうずしていたが、沼田だけは「お客さんがいなくなってからだって、主任が言ってるだろ」と周囲を諌め、真面目に吉田のいいつけを守ったりした。

 生真面目な性格は仕事だけではなかった。例えばカードゲームをして負けるとものすごく悔しがり、勝つまで続け、逆にゲームに勝つとすごい喜び様だった。

 そんなふうに周りと比べてひときわ純粋なところがあった沼田のことを、当初、吉田は集団生活に馴染めるかどうか心配に思うこともあった。実際のところ、沼田はやんちゃな若者集団の中で少し浮いてしまうところもあった。とはいえ、そのバカ真面目さが周囲にとって一旦キャラっぽく映り始めると、いじられながらも次第に集団の中に溶け込んでいった。八月の花火大会をする頃にはだいぶ打ち解けるようになり、吉田もホッとした。少しくらい変わっている人間も互いに受け入れてまとまっていくことができたと思えたからだった。

 

 沼田の家庭には母親がいなかった。そのため父と祖母と祖父が沼田と沼田の弟を育てていた。沼田は母親がいないことをあまり話そうとせず、「育ててくれたのは父親です」と言っていた。吉田には母親のいない家庭に育った青年は少しくらいひねくれてもおかしくはないと思えたが、沼田は父親思いのいい息子だと映った。

 ある時その沼田が母親のことを口悪く言ったことがあった。

 「親父とか自分を置いて出て行くなんて信じられない」

 淡々と話した沼田だったが、その様子は逆に、本当は言いたくないのだろうなと映った。沼田の気持ちはわからなくもなかったが、吉田は諭すように言った。

「出て行った母ちゃんにしても、何か止むに止まれない事情があったんでねえの。今くらいの年だと、恨むような気持ちになるかもしれねえ。もう少し年を重ねれば気持ちも変わってくるかもしれねえ。お母さんを恨んじゃいけねえ。自分の子供が可愛くねえ親なんていねえだから」

 

 ただ沼田に向けられたその言葉には、吉田自身にとっての弁解の響きがいくらか含まれていたかもしれない。吉田は妻と別れた後、息子二人を片親で育てられなければならなかった。祖母が彼らの面倒を見てくれたとはいえ、母性の少ない家庭で育てざるをえなかったことに変わりはなかった。その分、彼らには将来大切な何かが欠けてしまうのではないか。そうした後ろめたさが、ずっと吉田の心の底に引っかかっていた。

 吉田は沼田のような片親で育った青年をついつい面倒を見てしまうようなところがあったが、それはどこかで吉田自身の取り返しのつかなさを埋めようとしていたと言えなくもなかった。

 

 吉田は沼田の祖母に一度だけ会ったことがあった。八月の夏の終わりのことだった。海水浴場で使う道具を運ぶため、吉田が「誰かトラックを持っていないか」と探していたところ、沼田が「うちにトラックありますから」と申し出、沼田の実家に一緒に借りにいった。すると小柄で物静かなおばあさんが出てきて「うちの直希がいつもお世話になっています」と弱々しく挨拶をした。「本当にいつも吉田さんのことばかり話しているんですよ。うちの直樹よろしくお願いします」。祖母の姿からは、どちらかといえば内気で変わったところのある沼田を、心から心配していたのだろうということが伝わってきた。

 

 沼田は陸上自衛隊に入りたいと常々言っていた。銃が好きで、近所の野っ原で地元の同好会らしき集まりに参加し、サバイバルゲームの撃ち合いをやっていた。

 「全天候型のサバイバルゲームコートのような施設を作れば絶対に流行りますよ」

 興奮してそうしゃべっていたこともあった。沼田の銃についての知識には抜きん出たものがあった。あらゆる銃の名前を覚えているのはもちろん、モデルガンを解体してもう一度組み立て直すこともできた。あるとき吉田が「銃を撃ったときの反動はどれくらいか」と聞いてみると、沼田は銃の型ごとに反動の強さや発砲音や弾の種類などをこと細かに説明しはじめ、その話はいつまでも尽きることがなかった。吉田が感心して「さすがだな」と言ってやると「はい、おれ、これすごい勉強したんですよ」と誇らしげに言った。

 そんなふうに沼田が銃の話をし始めることはよくあることで、一旦そうなると興味のない周囲の若者たちは、「鉄砲マニア、また始まったよ」と半ば呆れながらそれを聞いていた。

 ただ沼田の自衛隊への憧れが、国を守るとか人を守るといったような使命感まで及んでいるかどうか、その時点では吉田にはわからなかった。迷彩服を着て銃を持って、訓練をする。そういう職業への憧れだと思えた。

 自衛官という職業に適性があるかどうかで言えば、泳ぎがさほど得意でないという意味で体力面での不安要素はあった。だが性格は向いているように思えた。真面目すぎるほどの一面は、自衛隊の規律の正しさに合うと思えたし、厳格な上下関係や階級制度なども性に合っていると思えた。海水浴場の警備にしても、仕事に手を抜くと時には人命に関わる事だという事を重く受け止めているようだった。

 沼田のまっすぐさは、不思議と吉田に自分自身の若い頃を思い起こさせた。まだ半人前の潜水士に過ぎなかった頃、吉田は陸上作業員として先輩作業員たちから使いっ走りにされたり、さぼっている先輩作業員の代わりに仕事をやらされたりした。頑張ってもなかなか認められず、一生懸命やっても褒められることもなかった。だがいつかは現場で指揮を取れるような現場監督になりたいと憧れていた。沼田の自衛官への憧れはそうした若い頃の純粋な気持ちを思い出させた。  

 そんな沼田だったが、その年の秋に陸上自衛官の採用試験を受け、落ちてしまった。受かるだろうと踏んでいた吉田としても意外な報告だった。沼田は落ち込んでいたが、「次も受ければいい」と吉田は励ました。

 だが沼田の話を聞いているうちに、吉田の会社に入る方向で話がまとまってしまった。他に就職先もなくて困っていた沼田を「それならうちで働くか」と誘ったのは吉田だった。吉田としても沼田が慕ってくることに関して悪い気はしなかった。

 ただ、内心では困った事になったという思いもあった。というのも吉田の会社にはすでに同い年の笹木という青年の入社が決まっていたからだった。笹木は沼田と同い年の高校生で、出会った頃は海水浴場のフェンスに海水パンツを引っ掛けて遊んでいた、地元のヤンキー青年に過ぎなかった。

「おじさん、バイト雇ってないんすか?俺、泳ぎ得意なんすよね」

 生意気な口を利いていたが、ひと夏の間アルバイトとして採用し、吉田が鍛えてやると素直になり、慕ってくるようになった。そして高校卒業に際して進路に困った笹木は、何を思ったか就職先の欄に勝手に吉田の会社の名前を書いて提出した。驚いた吉田だったが、困っている笹木を見放すわけにもいかず、結局は雇うことになった。そんなお調子者の笹木はある意味で生真面目な沼田とは正反対の性格だった。

 いずれにしても笹木に加えて新たに沼田も入ってくるとすれば、まとめて面倒を見なければならない。それに二人分を食わせていくだけの仕事が取れるかどうか。

 とはいえ、就職先に困っていた笹木を入れて、同じ境遇の沼田を入れないというわけにもいかなかった。吉田としても腹をくくって面倒をみることにした。

 十一月には静岡まで測量の仕事の手伝いに二人を連れて行った。どんな仕事か見せてやるのも勉強になるだろうと思ったからだった。現場の海に着くと、泳ぎの苦手な沼田には巻き尺を持たせ、泳げる笹木には反対側の「ゼロセンチ」のところを持たせて海に入らせた。

 沼田はそれまで修学旅行以外で宮城県から一度も出たことがなかったらしく、よほど嬉しかったのか、笹木と二人ではしゃいでいた。一泊二日でホテルに泊まり、帰りのサービスエリアでメシを食いながら「楽しいです」と言っていた。

 ところが静岡から帰ってくると、その沼田から「吉田さん、ちょっとお話しがあるんです」と電話が来た。

 「実は繰り上げで自衛隊に受かっていたんです…。」

 神妙な声をしていた。電話口の声から、やっぱり自衛隊に行きたいと言いたいのだろうなと思った。

 「あの、親父と挨拶に行ってもいいですか?」

 三日後に沼田は父親を伴ってやってきた。手には「やまや」で買った一ダースのビールを丁寧に包装紙に包んで持っていた。吉田はそのとき、初めて父と対面した。 

 「うちの直樹も相当悩んだんですけれども、吉田さんに内定までもらっていたんですが…。自衛隊の方に入りたいと言っているんです。なんとか許してもらえませんか」

 スジを通す、という意味では怒っても良いところではあった。自衛隊に落ちたから面倒を見るということになったのに、繰り上げで受かったからといってそう簡単に翻せるものでもない。「世の中それでは通じないだろう。自衛隊に行くにしても、例えば、一年間うちで稼いでから行くのがスジだろう」実際、そんな言葉も出かかった。しかし吉田はなぜか別のことを言っていた。

 「うちなんかいつ潰れるかわからないような小さい会社だ。小さいころからずっと自衛隊に行きたかったんだろう?」

 「はい…」

 「うちのことは気にするな。自衛隊さ行け。遠慮すっことねえから。」

 「本当ですか。社長からそういってもらえるなら、直樹も本当に助かるんです」

 言いながら、父親は付け足した。

 「ただ、これで終わりだよ、もう繋がりがなくなるよというのでは、直樹としてもすごく辛いことなので…。できれば勝手な話しですけど、今まで通りなんとか直樹のことを可愛がってもらえませんか」

 悪い気はしなかった。吉田は自衛隊で何年か働いて、もし続かなければ吉田のところに戻ってくれば良いと言った。すると今まで悩んでいた沼田の顔がぱっと明るくなった。

 「いいんですか?ありがとうございます!」

 「良かったです。直樹はメシ食う時から何から、ずっと吉田さんの話ししかしないんですよ。アルバイトを始めたときから直樹の考え方も変わって」

 父親もことのほか喜んでいた。そうした紆余曲折もあり、沼田は春から始まる自衛官としての新生活を楽しみにしていた。

 やがて高校の卒業式が終わり、もう少しで自衛官に赴任するという春休みになっても、沼田は吉田の事務所に遊びにやってきた。吉田の仕事が終わるのを待って、みんなで麻雀をやるのを楽しみにしていたのだ。

 その頃、吉田の事務所は海水浴場のアルバイトの若者たちのたまり場になっていた。ある時などタバコをふかしながら麻雀をやっていたためか、近所の人に「若者のたまり場になって、悪いことをしている」と通報されてしまったこともあった。だが吉田としては多少のことは目をつぶっていた。若さを持て余している青年たちを押さえつけても仕方がない。そう考えて多少ハメを外したところで大目に見ていた。ただ人として曲がった事はダメだという考えだった。

 麻雀をやりながら、吉田は春先から始めようとしていた閖上の海水浴場の準備のことを話した。

 「今年は笹木と準備すっけど、沼田は来られねえな。自衛隊さ行くものな」

 「いや、五月の連休には必ず来ますよ。」

 「おお、そうか。来れんのか。」

 「はい。友達連れて、自衛隊の服着て行きますよ。ほふく前進で行っていいすか」

 「おお、来い、来い」

 そんなやり取りをした。帰り際、「沼田、気をつけて帰れよ。就職決まっているんだからな」と送り出すと、沼田は念を押すように「また来ていいすか」と聞いた。いつでも来いと吉田が答えると、沼田は「お疲れ様でした」と言って、ヘルメットをかぶり、五十CCのエイプにまたがって走り去って行った。遠ざかるブーンというエンジン音を聞きながら、吉田はその姿をなぜか見つめていた。

Copyright © 2020 KAIRI YADA

  • facebook