6 地震と津波

 

 1

 

 

「笹木、今年からはおまえ、社員なんだからな。ひと夏、無事故でいくぞ」

「はい、そうっすね」

 吉田は助手席に座り、免許取り立ての笹木に軽ワゴンを運転させていた。笹木はこの三月に高校を卒業したばかりの十九歳だった。就職先に困った末に学校に提出する書類に勝手に吉田の会社の名前を書き、なぜか吉田が面倒をみることになった。

 困ったら何でも相談に来いという意味ことは言ったが、就職を面倒見るというつもりではなかった。けれども言ってしまった手前、笹木の就職相談を断ることもできなかった。後に沼田が自衛官の試験に落ちてしまったため、合わせて二人の面倒を見るつもりだったが、沼田が繰り上げで受かったために、結局笹木だけが入ってくることになった。笹木は夏の間のアルバイトを経験してはいたが、入社するとなれば仕事のことは一から教えないといけなかった。運転もそのひとつだった。

 

 閖上の海水浴場の警備の仕事を任されてからというもの、毎年三月になるとその準備を始めることになっていた。シーズンオフのうちに救命道具を安く仕入れ、アルバイト警備員の講習の日程を決める。その年の夏が猛暑になりそうであれば、警備の人数を増やさなければいけない。それに今年は思い切ってビーチパトロール用のジープを新たに買い替えることにしていた。ちょうど二人はそのジープを閖上から二十キロ北に離れた利府まで取りにいくところだった。

 事務所を出て精麦所の巨大な銀色のタンクのそばを通り過ぎ、くすんだ水色の歩道橋がある五叉路を北に曲がると、緩やかな白いアーチを描く閖上大橋が見える。橋の手前が名取市で向こう側は仙台市内。橋を渡り、海沿いのあぜ道を北に向かって車を走らせる。地元の人が浜街道と呼ぶ県道十号、亘理塩釜線だった。

 仙台市といってもこのあたりの風景に都会らしさはなかった。樽のように積まれた田んぼのわらや、重い色彩の松林にどんよりとたれ込めたぶ厚い雲。それはどちらかといえば寂れた田舎景色に近く、東北の遅い春を待つ、凍てついた空気もまだ厳しさを含んでいた。

 

 ウィーン、ウィーン。

 

 閖上大橋から三キロほど行った深沼海水浴場のあたりでふたりの携帯が同時に甲高い音をたてた。緊急地震速報だった。

「吉田さん、地震ですかね」

「ん?エリアメールか、たいしたことねえべ」

 いつものことと思っていたが、次第に車が大きくバウンドしはじめた。笹木がハンドルをとられ、車がコントロールを失い始めた。

「お、どうした。パンクでもしたのか?」

「いや、違います。地震です。電信柱、見て下さい」

 前を見ると電柱の列がみな、メトロノームの針のように左右に大きく揺れていた。これはまずいと思った。免許取り立ての笹木では不安になった。吉田はすぐに車を脇に止めさせ、運転を交代しようとした。けれどもバウンドが激しさを増し、うまく降りられなかった。他の車も次々と運転をやめて路肩に駐車を始め、にわかに車の列ができた。一瞬、揺れが収まったすきになんとか運転を交代した。近くの家からびっくりしたおばあさんが外に飛び出してくるのが見えた。

 これほどの揺れは今まで体験したことがなかった。家が壊れて大勢の人が怪我をするだろうと吉田は思った。今しがた渡ってきた閖上大橋も落ちたかも知れない。家族はどうだろう。自宅の妻と小学校にいる息子が気になった。それにその日に限って父である浩が閖上港で潜水作業に加わっていたことも気になった。沿岸部の港町に津波が来るかも知れないと吉田は思った。

 

 激しい揺れは続いた。道路が飴細工みたいに波打ってねじれ、亀裂が走り、陥没する。家屋の土壁や瓦が崩れ落ち、あぜ道の土が用水路にぐしゃりとなだれ込んだ。見るとさきほど家から飛び出したおばあさんは道路の真ん中で腰を抜かして動けなくなっていた。

「おばあさんを避難させて来い」と吉田は笹木に指示を出した。笹木は車を降りて走り寄ると、這っていたおばあさんに手を貸し、立ち上がらせてどうにか家の軒先まで連れて行った。戻ってきた笹木の表情にも不安があった。どうすればいいんですかねと尋ねる笹木に、吉田はとりあえず家族に電話しろと叫んだ。

 笹木が携帯をかけたが繋がらなかった。ただ笹木の家は内陸部にあったため、大丈夫だろうと思った。

「とりあえず戻るぞ」

 余震が続く中、吉田は車をUターンさせて来た道を閖上の方へ戻った。なぜか反対車線は渋滞もなく、閖上大橋までスムーズに戻ることができた。けれども橋のたもとまで戻ってくると、車がつまって進めなかった。事故が起きていたのだ。車を降りて近くにいた人に話を聞くと、大型トラックが荷崩れを起して対向車が潰されているとのことだった。近寄ってみると、二十メートルはあるかという工管が五本落ちて反対車線の二台の車が下敷きになっていた。地震の激しい揺れでトラックの荷台のチェーンブロックが外れ、括り付けていた工管が落ちたのだ。

 中を確認しにいくぞ、と吉田は笹木に声をかけたが、笹木はひるんだ。手前の車はあきらかにぺしゃんこになっていたからだ。しかたなく吉田が一人で向かった。

 こんなときに自然と足が向かうのも、ある意味で吉田の習性のようなものだった。海水浴場の警備をしていた頃も溺れそうな人がいれば近くの警備員に救助の指示を出したり、自ら向かうときもあった。この場面で手を貸すべきか、そうでないか。瞬時の判断が結果を左右する現場で小さな変化を察知して決断する。そうしたことを長年続けてきた。大切なことはまず状況を正確に把握することだった。

 近寄ってみると手前の一台は目も当てられない悲惨な状態だった。潰れすぎて中を覗く隙間もなく、確認するまでもなかった。ただ奥の軽自動車はある程度かたちが残っていた。助手席の窓から人影が見える。生きているだろうか。覗き込むと年配の男性がいた。天井を破った工管が首筋に直撃し、不自然なかたちでぐったりとうなだれたまま口から血を流していた。「お父さん、大丈夫か。」声をかけたが反応はなかった。助手席からそっと手を伸ばして脈を取ったがダメだった。警察を呼ぶしかないと思った。

 ふと橋の上から川面に目をやった。いつになく水の流れが早く、海に向かって水が引いていくのがわかった。けれども沖の方、どんよりとした雲と鉛色の水平線のあいだにはまだ何の変化も起きていなかった。

 

    

 2

 

 

 閖上の町は仙台駅と仙台空港の中間に位置する海辺の町だった。仙台駅から十キロメートルという近さを考えれば、非常にアクセスの良いベッドタウンではあった。しかし三方を田畑に囲まれ、東は太平洋に面した港町であり、ある意味では他の地域と隔絶された保守的な場所でもあった。

 生まれてからの一生をこの町で過ごすという人も多く、たった一つしかない小学校、中学校を皆で卒業し、同じ町で結婚生活を送り、同級生と生涯の近所付き合いを続けるという人も多い。町で生活をしている年配者の中には電車の切符の買い方を知らない、という人もいるくらいだった。

 今年、七十三歳になる小平守夫という老人もまた、そんな町で生まれ育った生粋の閖上人の一人であった。

 

 「大変なことになっているわよ」

 大きな地震に驚いた小平が家に戻るなり嫁が言った。小平はいつものように午後の散歩がてら向かったショッピングセンターの駐車場で大きな地震にあった。足下のアスファルトがまるで重りを乗せたこんにゃくのようになってしまうほどの揺れ。七十年以上生きてきた中で初めて味わう地震に、新築の家が壊れてはいないか、ガス漏れはないだろうかといろいろな心配がよぎり、家に戻ってきていた。

 家の中を覗くと、あらゆるものがひっくり返っていた。仏壇の仏具が壊れ、本棚にあった日本の歴史や西洋絵画の本も崩れて落ちていた。茶箪笥に入っていた写真立てもすっかり倒れていた。娘の成人式の写真や、町の漁亭『浜や』での亡き妻との写真も倒れていた。足の踏み場もなかった。とはいえ、家が壊れて使えなくなるほどのことでもないと思った小平は、壊れた仏具から手を付けようと思った。

 

 けれども家の前の通学路の様子がおかしいことに気づいた。嫁に「もうみんな来てるよ」と言われ、縁側から外に目をやると生け垣の向こうをたくさんの人が走っていくのが見えた。親子連れや老夫婦。あらゆる人々がひとつの場所を目指して駆け出していた。二キロほど離れた海岸沿いの家から走ってきた同級生が顔をのぞかせ「あんだ、早ぐ逃げとけ」と言って去っていった。そのとき小平はずいぶんと遠くから逃げてきているなと思ったが、それからたった数分のうちに人々の数はみるみる増えていった。

 家の前の県道では信号が消えて動けなくなった車が列をなし、渋滞が起きていた。いつも行き交っていた自動車の音がぱたりと消え、奇妙な静けさの中にときおり「逃げろ」という誰かの鋭い声が聞こえた。人々は向いの小学校に避難しているらしかった。

 家に戻る車の中で聞いたラジオ放送が「六メートルの津波が来ます」と言っていたが、まさか自分の住む二キロも内陸にまで来ることはないだろうと小平は思った。けれども人々の様子も尋常ではなかった。

 結局小平は嫁に促されるまますぐ目の前の小学校へ逃げることを決め、孫と三人で玄関を出た。ただ、門柱のところまで来たとき、小平だけがふと足を止めた。

 町内会の防災訓練を思い出したのだった。数年前から何度も繰り返した訓練ではこうした災害のときの段取りも決めてあった。町の集会所に集まって対策を立てたうえで逃げようということになっていた。小平はその町内会の役員だった。家から出て道路に出た瞬間、なぜかそのことを思い出した。今ごろ、集会所に何人か集まっているだろうか。自分だけが逃げたのでは非難の的になるかも知れない。こんなときに律儀な性格が頭をもたげた。ちょっと迷った末、小平は目の前の小学校とは反対方向に向きを変え、集会所に向かうために県道のある海の方へ数歩歩み進んだ。

 そのとき、県道の向こうの広い田んぼのまん中を何かがすごい勢いで押し寄せて来るのが見えた。よく見ると港に係留されていたはずの漁船や、沿岸部の家屋の屋根や柱が黒々とした濁流に押し流されているのだとわかった。思わず息を飲んだ。異常な事態に危機感を覚え、何かを考える余地もなく、逃げなければいけないと感じた。

 すぐに向きを変え、学校の方へ走り出した。校庭には遠くから逃げてきた人々が乗ってきた車が何列も並んでいた。けれどもあれだけ通りを埋めていた人影は既になかった。小平は自分が最後なのだとわかった。校門を過ぎたとき一度だけ振り返ると、濁流が県道を越えて、まさに自分の家を飲みこもうとしていた。

 

 前を向くと校庭の左手からも既に濁流は浸入していた。追いつかれてしまえばもうだめだと思った。だが小平が校舎に向かう速さよりも、濁流の勢いの方がはるかに速かった。気がつくとそれは数メートルのところにまで迫っていた。近くで見ると、その流れの蠢くさまは、まるで黒くてどろどろとした巨大なアメーバのような生き物があたりを飲み込んでいくようだった。覚悟を決めた小平はその巨大な生き物の方へと向き直った。

 

  *   *   *

 

 小平守夫は昭和十三年、一九三八年に閖上の街から少し外れた牛野という地区の米農家に生まれた。日中戦争が始まり、日本が太平洋戦争へと突き進んでいくさなか、稲穂の揺れる仙台平野の片隅にぽつりと立つ農家の八人兄弟の末っ子として育った。両親と七人の兄や姉がいる他に、三人ほど農業の手伝いをする住み込みを雇っていた。夕食のときになると十五人近い大勢の家族が一堂に会して賑やかになった。家は茅葺き屋根で天井がなく、虫がつかないように煙でいぶしたために、風が吹くとよく天井からすすが落ちてきた。

 土間をあがると囲炉裏があって、そこでみそ汁を作ったり焼き物をしたりした。まだ籾殻でご飯を炊いていたころで、焦げができないように火の番を任されることもあったが、おこげが好きだった小平はわざと強火にしてみたりした。家のそばには井戸があり、つるべ落としで汲んだ水を五右衛門風呂に二十杯ほど入れて、屋敷にあったいぐねの杉やけやき、栗の枯れ葉を集めて風呂を焚いた。夏は畳をはがして板の間に寝転がると、田んぼを抜ける風が涼しかった。

 

 小平が小学校にあがったのは一九四五年、戦争が激化し、終戦へと向かっていくころのことで、そのころ閖上小学校は閖上国民学校と呼ばれていた。牛野の農家から三キロ以上ある砂利道をはだしで歩いて通ったせいで、小平の足の裏の皮はすっかり厚くなった。

 学校の正門の脇には奉安殿と呼ばれるやしろのような建物があった。中に天皇の御真影と勅語が大切に納められていて、登下校のときにそこに向かって礼をしなければならないことになっていた。同じようなものが講堂のステージの奥にもあった。緞帳をめくると菊の御紋がふたつついた観音開きの扉があり、御真影があった。とはいえ、誰もそれを見た者はいなかった。元旦などの行事の度に、その扉はモーニング姿の校長によって丁重に開かれるのだが、そのあいだ生徒は頭を垂れるように言い渡されていたからだ。小平もそれにならって下を向いていた。

 国民学校では教師たちに、できるだけ草色の服を着て来いとよく言われた。米軍の爆撃が来たら近くの草むらにすぐにとけ込んで、どこにいるかわからなくするためだった。とはいえ、物資も何もない時代に緑色の服をと言われても、そんなものが都合良くあるわけではなかった。

 

 やがて戦争が激化し、小平の住む仙台平野にもB-29の影が忍び寄った。仙台空港が近かったために、米軍の爆撃によって小平の屋敷の近くや小学校にも焼夷弾が落ちた。小平の家族は爆撃に供えて屋敷のそばに防空壕を掘り、家の白い壁に墨を塗って目立たなくしたりした。夜は電気を消し、サイレンが鳴るとすぐ防空壕に逃げた。ちょうど家族が入れるくらいの大きさの穴だった。そこでろうそくをつけて爆撃機が去るのをひっそりと静かに待った。仙台空港のそばには夜空を照らす探照灯というものがあった。上空を照らすと暗い遠くの夜空に小さなB-29の影が見えた。「光を当てれば、敵も眩しくて見えねえんでねえか」と幼い小平は言っていた。

 

 爆撃の合間に不思議な銀紙のようなものが空から無数に落ちてきたことがあった。米軍が日本軍の通信の電波を遮断するためのものだった。幼心に、小平は「何だあれ、光るものが落ちてきたぞ」とはしゃいで無邪気に拾いにいったものだった。それを拾い集めて、田んぼでスズメを追い払うのに使った。風で揺れるとぴかぴかと光ってスズメは逃げていった。スズメがたくさんいたころだった。

 

 もっとも激しい空襲は七月十日にやってきた。亘理塩釜線まで避難すると川向こうの北の空が真っ赤に燃え上がるのが見えた。仙台空襲だった。その晩はサイレンが鳴るのに合わせて逃げ、自宅から離れた畑の中にふとんを持っていって一夜を過ごした。その焼けつくような赤い夜空を小平は震えながら見ていた。

 それからしばらくした夏の昼下がりに、小平は農作業をやめてラジオの前でぐったりとうなだれる父の姿を見た。とうちゃんどうしたのと聞くと、日本は戦争に負けたんだと言った。天皇陛下がそう言っているんだと言った。小平はもう爆弾は落ちてこないのだと思った。

 夏に終戦を迎えると、いろいろなことが変わった。奉安殿はなくなり、街の誰かの家に譲られた。教科書は墨だらけになって、たくさんの記述が消された。呪文のように唱えさせられていた教育勅語もなくなった。誰でも自由な発言ができるようになった。ただ、そうした時代の変化の中に自分がいるのだとわかるのはもっとあとのことだった。

 そのころの小平は相変わらずはだしで走り回る無邪気な少年でしかなかった。秋には学校行事でイナゴ取りがあり、たわわに実った稲穂のあいだを縫うようにたくさんのイナゴを取った。それを業者に売って本を買ったりした。運動会では玉入れや騎馬戦や部落対抗リレーをした。休み時間には手作りの長縄で縄跳びをしたが、粗雑な造りで、たった一日で壊れてしまった。冬にはたくさんの雪が積もり下駄で高さを稼いで雪に埋もれぬよう学校に通った。元旦に学校に行くとみかんひとつと紅白のもちがもらえた。

 あるとき担任が突然雪合戦をするぞと言って、全員が校庭に出させられた。雪が積もる中をはだしで走り回ると足の感覚がなくなり、それを通り過ぎるとやがて不思議と足の裏に熱が兆してきた。楽しかった。給食さえない時代。まだまだ貧しかったけれど毎日が楽しかった。それが小平が過ごした小学校の日々だった。

 

 

 それから六十年以上が経ったいま、小平は同じ校庭で津波にのまれようとしていた。最初はくるぶしの高さで入ってきた濁流は見る間に膝の高さになった。小平はその中を進もうとしたが、一歩も歩かないうちに足下をすくわれ、倒された。倒される瞬間、地面に両手をつこうとしたが、伸ばした腕の先には水を掻く感触しかなかった。たった今まで自分の足下にあった地面の確かさはどこか奥深くへ沈んでしまって、もう頼ることはできなかった。うつぶせのまま顔ごと浸かり、息をしようとしてしたたかに水を飲んだ。一緒に泥や小石のようなものまでが食道を通っていった。呼吸が速くなった。けれども無慈悲にも息をするほどに入ってくるのは泥や油の混じった海水でしかなかった。

 ただ流されていく他なかった。全身の筋肉がこわばる中、どうやって浮かぼうかということが頭をよぎった。泳ぎは確かなはずだが、動くと思っていた身体はまったく動かなかった。厚着した服がたっぷりと水を吸っていた。頭を水面に出すことさえできなかった。ただ流される中で思ったのは、このままいけば校庭に駐車してあった何台かの車のどれかにぶつかるだろうということだった。車にぶつかれば流れが止まり、何か状況が変わるかも知れない。けれどもあるはずの車はどこかへ流されていて、かわりに左足が別の固い何かにぶつかった。

 とっさにその固い何かに手を伸ばし、腕を絡めようとした。水の圧力で手がはがされそうになったが、なんとかつかまった。つかまることができたとき、はじめて水面に顔を上げた。自分がつかまっているのは太い樹の幹だとわかった。校舎と裏の田んぼのあいだに植えてあった桜の樹だった。濁流が勢いを増し、上がってくる水位の中で、小平はその又の部分によじ上らなければならないと思った。けれども必死にあがろうと足を高くあげるほどに浮力が失われた。重い上着の間からザバーッと海水を漏らしながら、バランスを失って再び水の中に沈んでしまう。何度やっても同じことだった。

 幹から延びる細い枝を握りなおして、そこを支点にすると今度はうまくいった。なんとか樹のまたによじ登り、その上に立つと急に寒さが襲ってきた。気化熱が急激に体温を奪う。津波の中で溺れかけているときには感じなかった寒さだった。すぐ後ろでは校庭よりも低い田んぼへと滝のように落ちる濁流のざーっという轟音が響いていた。そこへ落ちたら終わりだと思った。気がつくと眼鏡も帽子もなくなっていた。

 水位はさらに増していき、樹の上に登った小平の首の高さまで上がった。これ以上きたら打つ手はなかった。そこからさらに上へ登ろうにも、枝振りが小さすぎて無理だった。

 壊れた家屋の木材やあらゆるものがそばを流れていき、何台もの車が小平のつかまる桜の樹にぶつかった。その度に桜の樹はミシミシと音をたて、ときおり樹の根元から大きな泡が立ち上り、いまにも幹ごとなぎ倒されて押し流されてしまうのではないかと思った。

 

 校舎の屋上ではフェンス越しに人垣ができていて、たくさんの人が小平の方を見下ろしていた。避難していた年寄りから学校にいた子どもまで三十人くらいいた。

 「助けてけろー」

 小平はその人垣に向かって叫んだ。この津波のさなかに誰かが来ることは考えられなかったが、他にできることはなかった。小平の思いは届かないまま、耐え忍ぶより他にない長い時間が過ぎていった。

 

 どのくらいの間、桜の樹につかまって耐えていただろうか。水位が上がりきったのか、濁流の勢いが一時ほどではなくなってきた気がしていた。そうしたさなか、小平はふと苦しむような生き物の声を耳にした。声の方を見ると、小平のつかまる桜の樹から二メートルくらいのところを小さなチワワが流れていた。そのチワワは黒い流れの中で瓦礫に混じって顔だけを水面に浮かせ、前足をばたつかせながら喘いでいた。ドレスを着ていて、流される直前までどこかの飼い主に可愛がられていたのだとわかった。くりっとした大きな目が小平の方を見ていた。何とも言えない気持ちになった。そしてなぜか小平はそのチワワを助けなければ自分も助からないような気がした。

 とっさに辺りを見回す。何かないだろうかと探した。チワワは流れに抗うように前足をばたつかせ、小平の方を何度も見つめた。そして小平はたまたま流れてきた長い棒きれを反射的に掴み、チワワの方へ差し出した。するとチワワもかすかだが棒の方へと泳いできた。小平は棒きれをドレスの背中へと伸ばし、うまい具合に引っかけた。

 片手で木の枝をつかんだまま、もう片方の手でチワワを引きよせ、すくいあげるとそれはとても温かくそして軽かった。抱き寄せるとチワワは小平の腕の中で爪を立て、くんくんと鳴きながら飲み込んだ海水を吐き戻した。

 

 

 

 3

 

 

 

「今行くから待ってろ!」

 吉田は校舎の窓から顔を出し、桜の木にしがみついている老人に向かって叫んだ。だがその叫びも老人にはほとんど届かなかった。校庭から隣の田んぼへと滝のように流れ落ちる濁流の轟音にかき消されてしまっていた。このまま津波が水位を増し、桜の木ごと老人をなぎ倒してしまえば、老人も助からないにちがいなかった。

 

 「何でそんな危ないところに入っていくの!戻ってきて!なんであなたがやるの」

 「オレしかできないんだよ!俺がやるんだ!」

 妻の美香が取り乱し、必死に止めたが、吉田はきかなかった。校舎内の廊下にいた人々の視線が吉田たちに集まる。

 「ダメ!やめて!」

 「パパ、戻ってきて!」

 小学校に上がったばかりの息子も泣きだしていた。背後で「やめた方がいい」という人々のざわめきも聞こえた。

 

 それらを振り切るように服を脱いでTシャツとジーンズ姿になると、吉田は校内にあった消火ホースを腰に巻きつけ、もう片方の端を顔見知りの男に渡した。そして窓枠に足をかけ、濁流の中へと一気に飛び込んだ。スニーカーの靴底が無数の瓦礫を踏む。

 

 黒々とした水は想像以上に冷たかった。全身の筋肉がこわばり、皮膚の表面に痛みのようなものが走った。

 「海水の温度は1か月遅れ」

 潜水士になりたての頃、父浩からそう教わった。それは三月の海が一年でもっとも冷たいということを意味していた。蔵王の雪解け水が名取川の河口に溜まり、それが津波に押し流され、そのまま内陸まで運ばれてきた。垂れ込めた雲間から白い雪もちらほらと舞っている。無謀と言われれば無謀に違いなかった。

 だが激しい気持ちが吉田を駆り立てていた。津波が押し寄せたとき、間一髪で小学校の校舎に避難することができたが、直後に裏手の田んぼに巨大な渦ができ、その中へ人や車が巻き込まれていくのが見えた。その中にはおじいさんやおばあさんや小さな子供もいた。そして彼らはあっという間に視界から消え、それきりどうすることもできなかった。

 吉田の頭によぎったのは、潜水用のドライスーツを持ってきていれば、何人も助けることができたはずだということだった。腰にホースなどつけなくても、十分な保温力と浮力でどこまででも泳げたはずだった。だが吉田も着の身着のままで小学校へと避難してきていた。今頃ドライスーツは家とともに濁流に飲み込まれているに違いない。痛恨の極みだった。

 だが打ちひしがれている暇はなかった。手近にいる人だけでも救出を試みなければいけない。潮位は激しく変化し、短い時間に水面が上がったり下がったりしていた。校庭の隅には桜の樹が6本植えてあり、その向こうの田んぼは何メートルか深くなっている。その先は余りに危険すぎた。助けに行っても逆に自分が流されてしまう。だが手前の桜の樹なら行けるかもしれない…。

 吉田は濁流の中、一歩、また一歩と老人のしがみつく桜の木の方へとにじり寄っていった。

 

 「これに乗って!このホースを絶対に離さないで。もし発泡スチロールが沈んでも引っ張ってもらえるから」

 

 桜の木にたどり着くと、吉田は腰に巻いていた消火ホースを解いて老人に持たせ、さらに近くに流れてきた発泡スチロールを渡した。ひと抱えほどの大きさの発泡スチロールは、人が浮くにはあまりに頼りなかった。しかし何もないよりはましだった。

 

 老人にホースを持たせると、吉田は流れに逆らい自力で浅いところを探しながら慎重に校舎の壁へと戻った。途中、校舎の壁に張り付いたままどうすることもできないでいた何人かのおばあさんに手を貸した。彼女たちもまた、吉田が手を貸さなければどうなっていたかわからない。再び校舎に上がる頃には体が冷え切っていた。

 「もう限界だから、替わりにやってくれ」

 吉田が戻ってくると、それまで二の足を踏んでいた人の中にも、「オレが変わりますから」と名乗り出る人が現れ始めた。吉田の行動に触発されたのか、尻込みしていた人々のあいだに救助の機運が高まった。

 

 

 校舎の中では、救助された人々の応急処置が始まった。校長や教職員の判断で、校舎内の使えるものは何でも使った。濡れた人々の服を脱がせ、職員の服や子供達の体操服、給食の割烹着を着せた。あるいは教室のカーテンを外して体に巻きつけ、凍える体を互いにマッサージする人もいた。ゴミ袋を体に巻きつけるだけでも暖をとることができた。

 理科室にあったロウソクが各教室に配られて火が灯され、薄っぺらな画用紙が即席の布団代わりになった。

 黒板に各々が自分の名前を書いていき、安否情報の把握が行われた。その数を合計すると八百五十人にのぼった。閖上の町に住んでいた五千六百人のうち、約七人に一人がその場に集まっていた。

 電気も使えなくなった。暖を取るには校舎にたった一つだけあった古い石油ストーブを使うしかなかった。それを一番広い音楽室に運び込み、老人と子供、病人やけが人が優先的に入ることになった。

 混乱もあった。音楽室に誰が入るかをめぐって人々が議論を始め、緊迫した空気を作り出した。ろうそくを灯して火事になったらどうするのかと噛みつく者も現れた。

 

 窓の外には垂れ込めた雲の下、水没した街の景色が広がっていた。数時間前まで田畑だった場所は巨大な鈍色の海となり、水平線の近くでは、流されながら燃えるあがる家々から不吉な黒煙が灰色の雲間へとゆっくりと立ちのぼっていた。人々はなす術もなくその景色を見つめていた。

 「全部やられたな」

 「ここはどうなるんだろう」

 「次にまた地震が来たらどうなるの」

 「家にばあちゃんを残してきたんだ」

  「子どもを残してきた」

  「寒い」

  「お腹が空いた」

 あらゆる切実な思いが、うめきとも嘆きともつかない声となって廊下や教室に溢れていた。そうかと思えば、なぜかあははと笑っている子どもたちもいた。

 

 

  4

 

 

 やがて長い夜がやってきた。ヘリコプターがバラバラと音を立てて上空を飛び、サーチライトで校舎の辺りを照らしていた。救助に来てくれるのか、あるいは食料を届けてくれるのかと期待が高まった。しかしヘリはそのまま帰って行ってしまい、多くの人を失望させた。

 

 夜になるとすでに津波の奔流は勢いを潜め、不気味な静けさが辺りを包んでいた。深い闇は人々をさらなる不安へと陥れた。校舎の近くの家々からは「助けて」という声が幾度となく響いた。しかし助けに向かうことは現実的ではなかった。視界が利かない闇の中、水没した校舎の外へ出て行くことはあまりに危険すぎた。何もできないまま長い時間が過ぎた。次第に助けを呼ぶ声も少しずつ弱々しいものになり、やがて聞こえなくなった。人々の間に無力感が広がった。

 消え入るような呼び声は、ずっとあとになってからも人々の心に深く刻まれることになった。かたちのない罪悪感に苛まれる人もいれば、あの声を忘れないことが震災を忘れないことだと言い聞かせる人もいた。

 

 窓の外では閖上の町が燃え続けていた。ときおりあたりに爆発音が響き、プロパンガスのボンベや車のガソリンが炎上していた。燃え上がる炎が水没した町の水面に映り、停電で暗くなった夜空を赤々と照らした。煙が垂れ込めた雲の中へと消えていった。

 

 人々は音楽室でストーブを囲み、車座になって時が過ぎるのを待っていた。壁にはチャイコフスキーやショパンの肖像がかけてあり、一角に閖上小学校の校歌の歌詞が貼ってあった。その歌詞は避難した多くの人々にとって、かつて同級生たちと肩を並べて歌ったものだった。

 

 岸をひたして名取川

 遠く潮をおしひらく

 あなたもぼくも朝あけの

 翼するどいかもめどり

 清い希望が呼んでいる

 

 しかしいま、どこを見渡しても「清い希望」を見つけることは難しかった。やがて津波が引いていくのか、あるいはさらなる大津波が襲ってくるのか。朝が来れば救助がやってくるのか、それとも食料がなくなり人々は力尽きてしまうのか。状況が良くなるのか、悪くなるのか、それさえもわからなかった。

 

 

 「すいません、おばあさんの目がおかしいんですけど」

 夜が更けた頃、音楽室に慌しい声が響いた。吉田が昼間、津波の中から助けたおばあさんの容体が急変しているようだった。瞳孔が開いて、息も脈も弱くなっていた。

 まずいなと吉田は思った。救助を終えて校舎に上がり音楽室にストーブを運び込んだ時には、まだおばあさんの意識ははっきりしていた。その時はこんな会話があった。

 「大丈夫ですか?寒いですか?」

 「ああ、大丈夫です、ありがとうございました、ほんとうに」

 「大丈夫、今すぐ温めますからね。寒いの?」

 「うん、寒いの」

 ぐったりとしてはいたものの、意識ははっきりとしていた。そして濡れた服を脱げるだけ脱がせ、その上からカーテンを巻き付けてストーブのすぐそばに連れて行った。

 しかしそれから数時間が経った今、いくら声をかけてもおばあさんの返事はなかった。それどころか呼吸がうわずったようになってきた。心臓の音も止まってしまい、瞳孔も開いていた。

 吉田はすぐに心肺蘇生を開始した。おばあさんを仰向けにさせ、顎を持ち上げてしっかりと固定させ、強く心臓のマッサージを行った。手を貸してくれというと、周りの人々も次々と手伝い始めた。

 「AEDはないのか?」

 「水没です。」

 肝心のAEDも津波でやられてしまっていた。吉田がしばらく蘇生を試みていると、ふとおばあさんが大きく息を吸い込んだ。

 

「大丈夫か?死ぬなよ。死ぬな、死ぬな!」

 吉田は必死に声をかけた。おばあさんは横たわったまま、蘇生を続ける吉田のことをずっと見ているようだった。しかし、一度は吹き返した呼吸も次第に弱くなり、再び止まってしまった。力なく半目になり、瞳孔も開いてしまった。束の間の静寂があたりを包んだ。

 やがて校長が呼ばれ、話し合いの末に、遺体をこのままにしておくわけにはいかないということになった。音楽室の隣に理科室があり、その薬品庫にカーテンで包んだおばあさんを安置することになった。もうすぐ夜中の十二時になろうという頃だった。

 

 

 

 

 やがて漆黒の空がうっすら青みを帯び始めた。長い夜が明けようとしていた。分厚い雲の切れ間から陽光が射し、辺りを少しずつ照らしていた。居合わせた小さな子供がつぶやいた。

 

 「希望の光だ」

 

 実際、それは希望の光であったかもしれない。朝が来れば太陽が姿を現し、どうしようもない寒さが和らいでいくかもしれない。何よりも明るくなれば人々は安全を求めて何がしかの活動を開始することができるはずだった。

 だが、その光は同時に無残な街の景色をどこまでもくっきりと映し出しもした。田んぼに横たわる船、壊れた家々の屋根、燃えさかる炎と黒煙。暮らしていた町の姿はもうない。一夜が明けた後も、それが悪夢ではなく現実であることを人々に見せつけた。ある人はその光景を戦後の焼け野原のようだと思い、ある人は世界の終わりだと思った。

 

 その風景の中、吉田は二人の青年と共に校舎を出て歩き始めていた。青年の一人が言うには、閖上小学校からほど近い閖上大橋のたもとに壊れたトラックがあり、その荷台に飲み物が入っているという。夜明けとともにそれを取りに行くことになっていたのだ。

 

 青年は吉田がおばあさんに蘇生を試みている時に「手伝いますから何かあれば言ってください」と助けを買って出た若者だった。そして夜明け前、何か状況を打開するためにできることはないかと皆で話し合っていた時、その青年が言った。

 「あの、トラックにドリンクがあるんですけど。持って来ようと思います」

 聞けば、青年はダイドードリンコの社員であり、乗っていた営業トラックの荷台にジュースやお茶などのたくさんの飲み物が詰まったままだという。それを取りに行けば、避難している人々に配ることができる、と。素晴らしい心掛けだったが、もう一つ吉田が感心したことがあった。

 「それ勝手にやって会社に怒られないの?」 

 吉田が心配を口にすると、青年は少し強気になって言った。

 「いや、これで会社に怒られたら、オレ辞めますから」

 そのひと言は、かすかな晴れやさを放っていた。大災害で多くの人が困っている。そんな時に自社の儲けばかり考えているような会社なら、やめてやる。吉田はそんな気骨あふれる人間が好きだった。 「若えやつも捨てたもんじゃねえな」

 うずたかい瓦礫を乗り越えながら、三人はまだ水の引かないぬかるみの中を歩いていった。

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