7 震災当時の懐古  

 

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 瓦礫の荒野がどこまでも続いていた。それは見渡すかぎりに広がる、どうしようもないほどの空間でしかなかった。船が田畑に転がり、壊れた家々の屋根や材木、ひしゃげた車が辺りを覆い尽くし、引かない海水が田畑にたまったまま曇天を映していた。

 その中を一本の道が海の方へ向かって伸びていた。それは自衛隊が救助に向かう際に瓦礫撤去をし、かろうじて切り開かれたアスファルトだった。吉田は車に乗って避難所から再びその一本道を海へ向かって進んだ。どこまで行っても重く痛々しい風景に終わりはなかった。

 

 吉田は捜索の依頼を受けていた。震災から二日後、吉田の長年にわたる引き上げの活動を知っていた市長が、直接連絡をとってきたのだ。市内の水辺の全てを捜索してほしいという。警察、消防が帯同するほか、現地にいる自衛隊員を必要な分だけ使い陣頭指揮に当たってほしい、とのことだった。

 

 とはいえ、どこにどれだけの人が横たわっているか、何の情報も無いに等しかった。市長も「吉田君がいそうだと思ったところは重点的に探してくれ」というのみだった。市や警察にしても、規模が大きすぎていったいどこに行方不明者がどこにいるか、どこから手をつけるべきかわからなかったのだ。ただ「貞山堀にたくさんの遺体が入っている」ということだけは聞かされていた。

 貞山堀というのは仙台平野の海岸沿いに数十キロも続く、かつて伊達政宗が作らせた運河だった。津波は港と運河に挟まれた海沿いの住宅地を次々と飲み込み、そのままおよそ五キロに渡って田畑を押し流し、田畑の真ん中に走る高速道路の土手のあたりでおおよそ止まっていた。

 その際に海辺の住宅地にいた人々が次々と流され、家々の瓦礫とともに運河の底に引っかかってたくさん沈んだままになっていた。家屋や車や行方不明者など、一緒くたになっていた。

 

 吉田としてもここまで手のつけようのない風景を見たのは初めてのことだった。少なくともそれまでの現場には、警察の通報とともに何らかの手がかりがあった。それは海や湖に落ちた車の特徴や、「確かにここから落水しました」という目撃証言であったりした。あるいは車のタイヤの跡が現場に残っていたり、遺書と靴がおいてあったりということもあった。それらは何らかのかたちで遺体の場所を特定する手助けになった。だが、街ごと流され、壊されてしまった風景の中で、手がかりになるものはないに等しかった。どこから何をしていいのかわからなかった。

 かたっぱしからやっていくしかない。とにかく総ざらいする他ない。そんな状態だった。

 行方不明者の生存の可能性が極端に下がるとされる七十二時間をすでに過ぎていた。生存者がいる確率は極端に低くなっていた。とはいえ目的はあくまで不明者の捜索であり、優先順位としてはまずは人を探すことだった。

 どこに誰がいるかもわからないけれども、家、車、鉄骨を撤去して下さい。その中で発見した人をあげて下さい。吉田はそう指示を出した。あとは単純に地図を乗りつぶすように作業にあたった。陣頭指揮を取りながら、吉田自身もドライスーツを身につけ、貞山堀の水中捜索にあたった。

 

 

 運河の水面には油膜のようなものが漂っていた。車から洩れだしたガソリンや工場の金属加工油、家庭の料理の油。あらゆる種類の油が混ざり、折り重なった瓦礫に流れをせき止められ、澱んだまま厚さ数十センチの層を形成していた。

 それらが本来水中に届くはずの光を遮ってしまい、分厚い油膜に顔を沈めると、すぐ下は重苦しい闇だった。深さたった数メートルの運河でしかなかったが、視界はゼロに等しかった。手探りの感触以外に頼るものはなかった。

 吉田は細長い棒を手に持ち、あたかも盲人が杖を手に歩くように、真っ暗な海底をゆっくりと進んでいった。一歩、歩くたびに棒を海底に突き刺しては、その感触を確かめる。水底にはヘドロがたまっていたため、運河の底は田んぼの中を歩くようなズブズブとした感触だった。だが、そこにもし土のうを刺したようなぼってりとした感触があれば人の太ももや腹かもしれなかったし、硬いものがコツコツと当たれば頭の骨かもしれなかった。

 もちろん都合よく人間だけを探せるわけではなかった。運河のなかには家が丸ごと一軒沈んでいるということもあったし、車が三台折り重なっているということもあった。その他にも船やバイクや材木やサッシといったあらゆるものが折り重なっていた。それらの中には水面に一部を覗かせているものもあれば、沈んでいて潜ってみるまでは全く見えないものもあった。

 まずは人を探す、という優先順位ははっきりとしていた。だがそれでも作業は困難を極めた。人を見つけたとしても、そのまま抱き上げられるとは限らなかったからだ。重機を使って周囲の折り重なる瓦礫を取り除かなければ動かせないこともあった。しかし、その重機を使ってしまうと思わぬところに別の人が横たわっていて、傷つけてしまう恐れもあった。その都度、何をどのような順番で取り除いていくか、慎重に判断していかなければならなかった。そうやって朝から晩まで作業をして、一日にたった数十メートルの前進があるだけだった。仙台平野には貞山運河が何十キロと続いていた。それは気の遠くなるような作業だった。そしてその途方もない長さの貞山運河でさえ、津波の被害全体のごく一部でしかなかった。いつ終わるともしれない、果てしない作業だった。

 

 水深が浅いとはいえ、作業はいつも危険と隣り合わせだった。例えば水の中に家屋がまるごと一つ沈んでいるというのもその一つだった。家一軒では大きすぎて重機で引き上げることはできない。代わりに水没した家屋の中にダイバーが潜って入り、行方不明者がいないかどうかを見ることになる。それは例えるなら暗闇の中で歪んだジャングルジムの中を手探りで泳いでいるようなものだった。視界が極端に悪く、ちょっとした水の流れや体をぶつけた衝撃で家屋が崩落する危険性が常にあった。そして暗い水の中で、本人も気づかない間にそうした家屋に入り込んでいるということもあったし、壊れた家屋の中に入っているうちに、入ってきた場所がどこだったかわからなくなってしまうということも少なくなかった。そうした場合、陸上と繋がっている長さ五十メートルほどの送気用のホースが命綱の役割を果たした。有線で陸上と連絡を取り、ホースを引っ張らせて、その感触を頼りに戻るしかなかった。あっちか、こっちかと模索しながらなんとかもと来たルートを戻って辛うじて水面にあがることができた。だがそのホースさえも作業をしているときに絡まってしまうこともある。ここまで障害物の極端に多い水の中を潜ることは吉田にしても初めてのことだった。

 

 水中に沈んだ針金やガラス、鉄筋や鉄パイプで怪我をすることもあり、またそれらが普段ならほとんど破けることのない丈夫なドライスーツを突き破り、あいた穴から次々に水がしみこんできた。そのため、保温機能も低下し、本来ならば感じるはずのない海水の冷たさに震えることになった。陸に上がった後も風呂がなかったため、タオルで油と海水を簡単に拭うだけしかできなかった。あとは辛うじて手に入れた乾いた服に着替えることができれば良い方だった。

 

 だがそのようにしてあたり一帯の捜索を一通りを終えたとしても、それは捜索の終わりを意味しなかった。翌朝、日の出とともに現場に行くと、前日に探し終えたはずの場所に、新たな遺体が浮かび上がっているということもあったからだ。それまで沈んでいた遺体の内部にガスが溜まって浮かび上がってきたり、あるいは前日に撤去したものの下敷きになっていた遺体が、貞山運河の緩やかな流れによって浮かび上がってくることもあった。そのため、作業には正確な意味での終わりがなかった。少なくとも吉田たち現場の人間にはそのように感じられた。

 

 遺体の状態は総じてひどいものが多かった。吉田はこんな場面に遭遇したことがあった。暗い水の中で遺体らしきものを見つけたと思って引き揚げようとすると、何かがひっかかっていて上がってこない。何かなと思い、手探りで身体を触ってみると、遺体からロープのようなものが伸びている。そしてそのロープのようなものを伝っていくとどうやら水没した車のミラーに絡まっているらしい。仕方なく水中ナイフでそのロープのようなものを切り、引っかかっている部分を解いて遺体をなんとか水面にあげる。するとロープだと思ったものは遺体の腹が割けて出てしまった腸だった。しかたなく吉田は土手の上に遺体をあげ、はみ出た腸をもう一度腹の中に詰めなおしてやらなければならなかった。

 また、遺体があったと思って手を握って引いてみると、その手ごたえが予想外に軽く、確かめてみると手首の先だけだったということもあった。鉄骨や車に押しつぶされてちぎれてしまったのか、手首の断面から白い筋のようなものがべろんとぶら下がっていた。

 あるいは手だけでなくとも、足だけ、指だけというケースもよくあることだった。そのため、近くで発見された別々の身体の一部が同一人物のものか、他人のものなのか、それさえもよくわからなかった。だからその日、いったい自分たちが何人引き上げたのか、実際のところよくわからなかった。

 

 五体満足の遺体であったとしても、目を覆うばかりだった。顔がはっきりとわかるものの中には、老人もいれば小さい子供や若い女性もいた。そこには様々な表情があった。半目を開いている人や、かっと目を開けている人、あるいは恐怖に怯えている人。激流の中で何かに捕まろうともがいたのか、棒のようなものをぎっちりと握っている人もいた。どの表情にも津波から逃れようと必死だった人々の最期の恐怖や無念が色濃く刻まれていた。それらは、例えば自らの意志で命を絶った人のすーっとしたある種の晴れやかな表情からは程遠いものだった。

 

 違っているのは遺体だけではなかった。捜索の作業そのものも、吉田が知っているものとはまったく違うものだった。震災が起きるまでの仙台港での引き上げには一連の流れがあった。誰かが海に落ち、家族の依頼があって捜索をする。捜索を開始し、発見に至り、遺体を引き上げて家族に引き渡す。そして「ありがとうございます」と礼を言われる…。そうした一連の流れを経て、吉田にもはじめて「やっと終わったな」という感情的な区切りのようなものが訪れた。それはいわば捜索に始まる緊張が、遺体の引き渡しによって安堵に落ち着くという、ひとつの循環のようなものであった。

 しかし、今回は違った。ただ次から次へと引き上げ続けた。一連の感情的な流れもまったくないまま次から次へと遺体を引き揚げ続けた。ただひとつ、区切りのようなものがあったとすれば、それは引き上げられた遺体に線香をつけることだった。

 現場では遺体が一体上がるごとに、消防、警察、自衛隊など、同じ現場で作業にあたっていた関係者が集まって一人ひとり線香をつけていった。それはどうやら自衛隊の隊員たちが始めたものらしかった。どこの現場でも同じようなことが行われ、のちに新聞などにもそのような写真が度々取り上げられるようになった。吉田も最初のうちはこれに倣って作業の手を休め、手を合わせた。バラバラになってしまった遺体を悼む、せめてものささやかな儀式だった。ただ、毎日上がる遺体に一体一体手を合わせているうちに、吉田の中に苛立ちや焦りのようなものが募り、次第にそれは大きくなっていった。

 それは一連の作業をしているとどうしても時間がかかったからだった。遺体を回収して、ジッパー付きの黒いシートの上に乗せ、そばに花や仏具を用意する。線香に火をつけて一人一人手を合わせる。あるいは近場の作業者たちが集まって皆で黙祷をする…。そうした作業を丁寧にやっていると、三十分くらいの時間が経ち、引き上げの作業効率が落ちた。行方不明者の水中捜索という、集中を要する作業が一連の祈りによって中断されてしまうように思えた。次第に吉田は「何をやっているのか」という気持ちになり、ある時しびれを切らして近場にいた自衛隊員に相談した。

 「すいません、できれば継続して、そのままのモチベーションでやりたいんですけど。一体ごとに祈っていたら時間がないですから。祈るなら、あとでまとめてやりませんか?」

 すると「いや、これだけはやらないとダメなんです。」という隊員の返事が返ってきた。吉田にもその返答は極めて真面目で誠実な態度であると思えた。人として死者に手を合わせることは大切なことだった。だが作業効率のことを考えると「めんどくせえな」というのも正直な気持ちだった。

 もしこのやり取りだけを聞いたら、多くの人が「後でまとめて祈る」という吉田の考え方を、死者を丁重に弔う気持ちとはかけ離れた、心ない態度だと受け取ったかもしれない。

 だが納得しない吉田の側にも理由はあった。一つには急がなければ沈んだままの遺体の損傷が激しくなってくるということがあった。そして吉田の経験上、二十七日を過ぎると浮かんでくる可能性が極端に低くなるということも懸念材料だった。

 ただ、吉田が一番気にかけていたのは岸壁に家族を探しに来る地元の人たちの気持ちだった。吉田は彼らの気持ちをこのように考えていた。

 ある人が行方不明のまま見つからない家族を探しに、運河の土手に来ていたとする。運河の土手から作業を眺めていると、自分の家族とは別の、知らない人の遺体があがる。そしてその知らない誰かの遺体に対して、捜索隊が集まって三十分のお祈りを始める。自分の家族はまだ見つかっていない。その時彼らはどう思うだろうか…。

 「お祈りなんかしていないで、私の家族を早く捜して欲しい。遺体があがって悲しいのはわかる。でももう見つかっただろう…。拝むのもいいし、線香あげるのもいい。でも私の家族はまだだ。早く探してくれないか…」

 たとえ言葉に出して言うことはできないにしても、心のどこかでそう思うのではないか。もし犠牲者が一人だけであれば、丁寧に拝むのもいいかもしれない。だが膨大な数の行方不明を捜索している時にはそうはいかないのではないか。日に日に状況が悪化していく中で、一人でも多くその日のうちに返さなければいけない。作業の時間も、朝七時半から、夕方五時までと決められている。日が出ている明るい時間帯を全部使っても間に合わない。そんなこともあって最終的に拝むならあとでまとめて拝んでくれ、という提案をしたのだ。そして実際に吉田の提案はのちに受け入れられることになった。

 

 岸壁にやってくる家族たちの思いは切実なものだった。彼らは岸壁に捜索にやってくる前に、足を棒にしてあらゆる避難所を訪ね歩き、遺体安置所で何百という棺桶を覗き込み、それでも見つからず、すでに精も魂も尽きていた。そして絶望的な気持ちを抱えながら、最後に岸壁で捜索をする吉田たちに手がかりを求めてきた。だが多くの場合、吉田たちは「何か手がかりになるものを」という彼らの期待に応えられないでいた。

 「津波が来た時、だいたいこの辺りを走っていました」

 そんな証言をいくつも聞いたが、実際にはほとんど役に立たなかった。というのも、その後に津波の襲来を受け、証言の場所からどこか遠くへ流されているケースがほとんどであり、数百メートル、あるいは数キロも流されてしまうことも少なくなかったためだ。のちに流された家屋の方向などから、地域ごとの津波の方角がある程度割り出され、人々の間に共有されるということもあった。ただそれもあくまで推測の域を出ず、捜索は難航していた。

 現場に写真を持ってくる人たちも多かった。携帯電話に入っていた写真データを見せて「こんな人なんですけど知りませんか」という人や、小さなプリント写真を預けて、「見つかったら知らせて欲しい」と電話番号や名前を渡してくる人もあった。

 吉田はそれらの写真の束をバッグに入れて持ち歩き、いつでも見られるようにしていた。捜索の合間に冷たいおにぎりをかじりながら、あるいは避難所に戻って眠るまでの間に、一枚一枚めくってはその顔を眺めた。若い女性の写真もあれば、子供の写真もあった。だがいくら顔を覚えても、その人たちが見つかることはなかった。遺体の状態が極めて悪く、照合を困難にさせていた。顔中泥だらけであったり、何かにぶつかった衝撃で顔が腫れたり崩れたり、色が変わっているものも多く、たとえ写真の本人だとしても見分けがつかなくなっていた。

 最初数枚だった写真の束はどんどん分厚くなり、やがて繰り返しめくるうちに雨や海水や油で汚れ、傷んでいった。そして最終的には数が多くなりすぎて整理しきれなくなり、結局市の捜索の担当者に渡して管理してもらうことになった。

 吉田たち現場の人間ができることは、ただ次から次へと誰のものかわからない遺体を引き揚げ続けることでしかなかった。例外的に、吉田の顔見知りが綺麗な状態で見つかれば、わざわざ警察に回すよりも照合は早かった。あるいは沈んだ車の中に人が乗っていた場合も警察に問い合わせてナンバーを照合することでかなり早く本人の特定をすることができた。しかしほとんどの場合、吉田たち捜索現場の人間は岸壁の家族が見ているところで期待に応えられないでいたのだった。

 

 一日の作業を終える頃には夕方になっていた。避難所に戻ると、妻と小学一年生の息子が待っていた。震災があってすぐの頃、吉田は妻に息子を連れて実家に戻るようにと言ったが、いろいろと話し合った末に、やはり家族は一緒でなければならないということになり、妻と息子も避難所で暮らすことになった。

 幸いにして無事だった家族がそばにいるということは吉田にひとときの安堵をもたらした。同時に心配事も尽きなかった。大きな余震が来て被害に巻き込まれていないか。ちゃんと飯が食えているのか、眠れているか。

 実際、妻と息子は避難所で食べ物や寝床を確保するのに苦労していた。避難生活が始まった頃、吉田が捜索から戻ると、妻と息子が毛布にくるまってホールの階段の隅にちょこんと座っていた。畳が一枚あるかないかの、小さなスペースだった。

 聞けば、居場所を確保するのが遅れて端の方に来てしまった、ということだった。他の家族はみんな旦那さんが来て早く取ってしまって、と。食べ物はと聞くと、配給はあったものの人が多くてもらえなかった、結局「たべっこ動物」一袋しかもらえなかった、と言った。息子と二人だけだし、ここから離れることもできない、どこにも行くこともできない、と妻は途方にくれていた。職員が持ってきてくれなかったのかと聞くと、持ってきてくれなかった、他の家はちゃんと旦那さんが立って、やってくれたと言った。

 それを聞いて吉田は苛立ちを抑えきれず、避難所の運営スタッフに詰め寄った。自分は名取市のために朝早く起きて夜遅くまで行方不明者を捜索しているのに、どうして家族をサポートしてもらえないのかと。

 だが市の職員にしても、大震災の避難所運営など、慣れないことばかりだった。何よりも市の職員たち自身も吉田たちと同じ被災者だった。職員の中には震災の対応に忙殺され、行方不明の自分の家族を探しに行くことさえできない者もあった。その後職員が食料を届けてくれることにはなったが、混乱はなかなか収束しなかった。

 苛立っているのは吉田だけではなかった。避難所内にはあらゆる人たちのぶつかり合いがあった。ペットと一緒に避難したい人とペットなど連れてきては困るという人。あるいは酒を飲まなければやっていられないという人と、それは集団生活なのだからやめてほしいという人。小さなことで人々はぶつかり合い、時には「なんだこの、こっちは家族なくして悲しんでんだぞ」「おお?こっちだって妹見つかってねえんだ」とのっぴきならない雰囲気になったりもした。

夜になり、灯りが消えるとホールの天井に人々の静かな寝息が響いた。時折、すすり泣くような声がこだますることもあった。人々は家族を亡くし、故郷をなくし、行くあてもない中、堪えきれない思いを押し殺すように身を寄せ合って暮らしていた。

 吉田の頭にも様々な思いが駆け巡った。捜索はいつ終わるのか。家族と妻と息子を連れてこれからどうすべきか。切れそうな糸をぴんと張りつめているような緊張の中、眠っているのか目が覚めているのかわからない奇妙な興奮状態が毎晩のように続いた。それは食べるものもない、住むところもない、希望もない日々だと言えた。ただ自分にしかできない仕事があるはずだと自分に言い聞かせていた。吉田は支援物資の食べっこ動物を一袋か二袋食べると、次の朝にはまた遺体を引き上げに海に向かっていた。

 

 

 2

 

 

 吉田には、一つの懸念があった。それは沼田のことだった。震災が起きてから五日くらいした頃、吉田はすべての海水浴場の警備員にメールを出した。生きているかを確かめる安否確認だった。すると「生きています、大丈夫です」というメールが次々と返ってきた。だが沼田のメールだけが返ってこなかった。吉田は嫌な予感がした。沼田の家は海から近かったからだ。だが程なくしてある男から「沼田は生きていますよ」という連絡が来た。

 「なんだあのやろう、返事よこさねえのか」

 吉田はその一報に違和感を抱いた。沼田が生きていれば必ず自分で連絡をよこすはずだと思えた。何かおかしい。しかしよく確認してみると、生きているというのは同じ沼田という性の別の男のことだった。

 「なんだ、あいつ。どこさ行った。徹底的に探せ。」

 吉田は愕然とした。津波に巻き込まれて犠牲になったかもしれないという悪い予感が現実味を帯びた。吉田は沼田の父親にすぐに、確認するように警備員仲間に指示を出した。

 吉田は海水浴場の警備をしていた時に、津波が来た時の避難の対応の仕方を指導していたことがあった。客を安全な場所にいち早く避難させ、吉田が最後まで残り、ドライスーツを着て逃げ遅れた人を助ける。そんな指導を毎年繰り返していた。それは沼田が入ってきた年にも教えていたことだった。だから実際に津波が来た際も、どこかでうまく避難したはずだ、という思いがあった。 

 だがこの惨状の中、数日が過ぎても行方不明ということは、十中八九ダメだろうなと思った。怪我をしてどこかの病院に搬送されたまま連絡が取れなくなっている可能性もあったが、それはせいぜい一パーセントくらいのものでしかないと思えた。内陸五キロまで押し寄せた津波の激しさをその身で体感していた吉田には、数日が過ぎて未だに行方が分からないということが意味する厳しい現実がよくわかっていた。

 

 沼田の弟と連絡が取れ、父親から電話連絡が来るとやはりまだ見つかっていないとのことだった。いろいろな避難所を探し回ったがどこにもいなかったとのことだった。

 吉田は父親に海水浴場の仲間たちを呼んで一緒に探しましょうと提案した。仙台空港から自宅までの間を二手に分かれて捜索し、さらに避難所も並行して探すという具体的な案も示した。吉田の中では状況からして避難所をいくら探してももう可能性はほとんどないだろうと思えたが、あえて「避難所も探しましょう」と提案した。それは現実的な捜索の意味合いよりはむしろ、生きている可能性を断ち切らないという父親への配慮だった。

 父親にしてみれば、避難所を探していた時はきっとどこかで「生きているかもしれない」と考えながら探していたはずだった。一方で海辺や空港の周りの土の中を掘り返すという吉田の提案は、その生きているかもしれない前提をある意味で突き崩すものだと言えた。それは父親にとって、ある種の無神経さ、あるいは残酷さと映るはずものだった。吉田は「避難所も並行して探しましょう」と提案することで、かろうじて捜索の話を前に進めることができた。

 

 吉田はまた、若者たちを集めて捜索に参加させることも彼ら自身のためになるだろうと考えた。未曾有の被害に遭い、街中が深い悲しみの中にある時こそ、若者たちが何かの役割を果たしているという存在意義を失ってはいけない、と吉田は考えていた。

 ほどなく吉田の呼びかけで、かつて海水浴場でアルバイトしていた面々が集まってきた。集まった若者は、避難所から着の身着のままでやってきていた。捜索用の長靴もなく、ある者はサンダルのまま参加した。中にはすでに自分たちの家族が行方不明になっていた者もいた。

 誰もが明日もしれない状況だったが、沼田の捜索を嫌だと言う者はいなかった。ここぞというときに心で動いた若者たちの団結は吉田にとっても救いのように映った。

 

 沼田の家から仙台空港の間を二手に分かれ、黙々と瓦礫のあいだを覗き込む捜索が始まった。沼田の祖父がすでに仙台空港の近くで遺体となって見つかっていたため、空港から自宅のあいだのどこかにいるのではないかと推測された。

 捜索中、吉田は沼田の弟からこんな話を聞いた。沼田は津波が来たとき、家でニコニコ動画のライブ映像を配信していた。映像の中で「いま、津波警報が出ています。これから逃げようと思います」と沼田は話していた。沼田の家は仙台空港にほど近い場所の、海から百メートルくらいの場所にあり、田畑が広がるそのあたりでは、高台までもかなりの距離があった。しかし沼田はもう間に合わないという時間までカメラの前にいたということだった。動画には津波の襲来の数分前の時刻が記録されていた。

 そんなことをしていないで早く逃げればよかったのに…。吉田はそう思うと同時に、動画の配信ということが沼田らしいなという気もした。津波が来るとわかっていても危機感を抱いていなかったのだろうか。祖母や祖父と共に逃げようとして、あるいは逃げる間もなく、家にいたまま津波に飲まれたのかもしれなかった。

 

 吉田の中に後悔が生じていた。もし沼田の自衛隊への繰り上げ就職を認めていなければ、沼田はあのまま自分の会社に入っただろう。そうすれば津波が来たあの日、笹木と三人で内陸部の利府まで車を取りに行っていたはずで、沼田も無事でいられたはずだ…。

 若者たちは広い瓦礫の荒野を黙々と探し続けた。果てしない作業だった。ある時は警察と同じように横一列になり、黒い水のたまった田んぼや畑の中を捜索した。棒で地面をつつき、スコップで土を掘り返し、側溝の中に手を突っ込んだ。

 何日かした時、沼田の自宅の近くの竹やぶから、沼田のバイクが見つかった。自宅近くにバイクがあったということは、バイクで逃げたわけではないのだろうと推測された。あるいは直前まで祖父母と行動を共にしていたのかもしれなかった。いずれにしても沼田もそう遠くないところにいるだろうと思われた。

 

「なんだ、沼田。オレに見つかると『何で逃げなかったんだ』って怒られると思って出てこねえのか」吉田は捜索の合間にそんなことをつぶやいていた。

 

 

 自衛隊との合同の捜索現場では相変わらず危険な作業との格闘が続いていた。余震があると、現場の空気はピリピリとしたものになり、作業を中断して内陸へと車を走らせて避難することも少なくなかった。ある時は作業中に不発弾が見つかり、自衛隊が沖で爆破処理をするために作業が中断されることもあった。捜索隊員の顔には疲れが色濃く現れ、現場の空気はじわじわと重苦しさを増していくようだった。

 時には吉田と自衛隊の間で捜索方針の食い違いが表面化したこともあった。きっかけは些細なことではあった。当初、吉田が組織した民間のダイバー隊は警察、消防とともに動いていたが、のちに自衛隊と合流することになった。

 ところが自衛隊の指揮官はダイバー隊を自分たちの隊員と同じように指揮し始めた。吉田としては自分たちの組織したダイバーを勝手に動かされては困るという思いがあったし、その動き方は吉田が考える捜索順序と違っていた。 

 吉田の隊は不明者がいそうな場所を一つ一つゆっくり、しっかりと見ていきたかった。だが自衛隊は素早く全体を見ていくようなやり方だった。それぞれのやり方には一長一短があったが、自衛隊としては災害の全体像を把握することに重きを置いたのかもしれなかった。しかし吉田は地元ならではの土地勘を生かして、独自の捜索を貫きたかった。

 「わかりました。吉田さんのやり方でやりましょう」

 吉田があまりに食い下がったためか、最終的には自衛隊が折れる形になったが、市役所の担当者を通じて、あのダイバー生意気だとか使いにくいというクレームが吉田のところに入ってくることになった。

 「吉田君、もうちょっと仲良くやってくれ」

 市長にそう言われたが、吉田は別に仲良くやるような仕事でもないと思った。

 

 ただ吉田も突っ張ってばかりというわけではなかった。重い雰囲気になりがちな捜索現場で、少しでも前向きになるように周囲を鼓舞し、士気が下がらないように心がけた。とりわけ捜索現場では若い自衛官を見つけては積極的に声をかけるようにしていた。

 「どこから来たの?」

 「九州からです」

 そんな何気ない会話が糸口だった。遠方からやってきた自衛隊員の中には上官からの命令に「了解しました!」ときびきび動く、自分の長男と同じ年頃の若者たちがいた。彼らは吉田の目に、極めて真面目な若者たちとして映った。正義感や使命感を持って被災地まで来たものの、慣れない捜索にやむなく従事しているように見えた。ただあまりに真面目に作業を続けていくと、どこかで心が壊れてしまうのではないか。吉田はそう考えていた。

 「天災は誰のせいでもないのだから」

 「真面目すぎなくてもいいんだぞ」 

 作業中に浅瀬を歩いている時や、土手の上で短い休憩を取りながら、あるいは水から上がって拾った遺体を渡す合間に、吉田は少しずつ声をかけていった。

 

 しばらくそんなことを続けていると、周囲の自衛官たちも吉田に打ち解けてきた。親しみを込めて吉田を「大将」と呼ぶようになったり、ある時は吉田が被災者だと知ったのか、自分たちの食料を持ってきて、「大丈夫ですか?」と分けてくれたりもした。食べ物に困っていて力が出ないという状況だった吉田にとって、それはありがい申し出だった。

 食料を分け合う、といえばこんなこともあった。ある時、運河の瓦礫を重機で引き上げていると水の中からジュースの自動販売機が丸ごと引き上げられたことがあった。吉田は警察官に歩み寄り、わざとらしく言った。

 「何だか喉乾いてきましたねえ」

 すると警察官も 含みを持たせるように言った。

 「あー、これは拾得物だね。中身を確認しないとね」

 重機オペレーターが強引に自販機を壊すと中から手つかずのジュースが大量に出てきた。警察官は「あー、中身処分しなきゃいけないね」と冗談めかしながら数本のジュースを拾い上げ、プシュッと栓を開けて飲み始めた。やがて周囲の警察や消防や自衛官も手を休めて同じように飲み始めた。隊員の間に含み笑いが広がった。

 まだどこの店先の商品棚も空になっていた時期のことで、街が壊れ、食料もままならなかった。人に言えた行為ではなかったが、不思議なもので、皆でジュースを飲んでいると、捜索隊員のあいだになぜか奇妙な一体感が生まれたような気がした。

 

 ちょっとした流出物を失敬することはよくあることだった。ある時は仙台空港の近くのコンビニ跡地から流れ出てきたシャンプーを拾ったこともあった。捜索中、水面に浮いたガソリンや油が顔にこびりつき、どうにも気持ちが悪かった。どこにも風呂に入れる場所がなかったので、できることならそれを洗い落としたかった。作業が終わると運河の土手の上でポリタンクの水をかぶり、頭を洗っていた。その時に失敬してきたシャンプーで髪を洗うと、わずかだけれども気分がすっきりした。

 ただ誰も落ちている金には手を付けなかった。金に手をつけることは超えてはいけない一線のように思われたこともあったが、何よりも現金などあっても使い道がなかった。商店の棚からは食料品が消え、ガソリンスタンドには毎日長蛇の列ができていた頃だった。圧倒的に物資が不足していた。現金を拾っても大して意味はなく、当座をしのぐための食料や水、日用品の方がはるかに意味があった。その意味では誰もがその日その日を生きるための食料や水に飢えていたと言ってもよかった。

 

 

 3

 

 

 沼田の遺体が見つかったのは震災から二週間ほどした頃だった。別の現場で貞山堀の引き上げの作業をしていた吉田に警察から直接連絡があり、沼田の特徴に似た男性が見つかったという話だった。

「ああ、やっぱり見つかったか。」

 割と冷静だった。ただ自分の目で見るまでは信じられなかった。

 

 警察からの連絡は沼田の父親よりも先に吉田のところに来た。知り合いの警察官に何度も「沼田を見かけたら知らせてくれ」と頼んでいたからだった。吉田が捜索に加わっているよしみもあり、知り合いの警察官が特徴、年齢、発見場所などが似ている、と知らせてくれたのだ。吉田は、自分ならどんなに変わり果てた姿でも沼田だと判別できると考えていたし、自分が判別してやらなければならないという思いもあった。その頃、県内ではおびただしい数の死者が見つかり、警察による身元判別の作業も難航していた。発表にしても、例えば「十代から二十代の男性」といった漠然としたものでしかなかった。DNA鑑定にまわってしまえば長い時間がかかるはずだった。だから誰でもいいから早く見つけて判別してやらなければならないと思った。何よりも、吉田にはもし沼田が亡くなっていたとしてもそれを直接自分の目で確認するまでは信じられないという気持ちがあった。

 

 警察の話を聞いていくと、沼田が見つかった場所は奇しくも吉田たちが捜索の合間に休憩がてらジュースを飲んでいた、池のような水たまりだった。津波の海水が溜まったままになっていたその池の水が干上がり、中から男性が発見されたとのことだった。状況からして、沼田に違いないと思った。けれどもどこかで人違いだと思いたかった。沼田はどこかで生きているはずだ、と。

 本人確認の作業には沼田の父と吉田が同行した。別居していた沼田の母もやってきた。遺体安置所になっていた公民館の広間にはたくさんの遺体が静かに並んでいた。あたりには線香の匂いが漂っていた。そばまで行くと、沼田はまだ濡れていた。

 

 こんなになってしまって…。ばかやろう、地震が来たら津波が来るって海水浴場のバイトのときにあれだけ教えていたのに。すぐに逃げて高台に避難しろって教えていたのに、どうして逃げなかったんだ。何のために海で警備員やって、何を勉強していたんだ…。 

 沼田の父と母は、「違うかもしれない」「うちの息子はこんなんでねえ」と静かに言った。両親は沼田の死を認めたくなかったのかもしれなかった。

 だがこれまで何度となく人の遺体を見てきた吉田には、それが沼田だとすぐにわかった。海に沈んだ遺体の顔が生前の顔といかに違ったものになるかということを何度も見てきたし、その違いを頭の中で修正することさえできた。

 それは長年遺体を引き上げ続けてきた結果、身についた能力だった。それまで捜索に当たるときは、なるべく頭の中に具体像を描くために必ずと言っていいほど「写真を見せてください」と遺族に頼むことにしていた。そして遺体を引き上げる度に、生前の写真と変わり果ててしまった姿を見比べることになった。そんな繰り返しの末、いつしか吉田は頭の中でその差をある程度修正できるようになっていた。

 目の前の遺体は間違いなく沼田だった。片方の八重歯が出ていることや、遊びに行くときの服装など、どこから見ても沼田だった。遺体の状態は良いものとは言えなかった。損傷は激しくなかったが、水に浸かっていたため、膨張して痛み始め、真っ白になっていた。これ以上腐敗が進むと皮膚が切れて中から白いものが出てくる。そのちょうど寸前だった。

「違いますよね、吉田さん?」

 母親が聞いてきたが、「いや、本人です」と吉田は答えた。

「そうですかねえ。そうですかねえ…」と父と母は繰り返した。両親が認めたくないのだろうという察しはついた。だが吉田ははっきりと言った方が良いと思った。お茶を濁してDNA鑑定などに回したとしても、両親が辛くなるだけだろうと思った。何より親が息子の顔をわからないということはないだろうと思った。

 気がつくと吉田の目にも涙が浮かんでいた。不思議だった。それまでの二十数年間、何度となく遺体の引き上げをしてきたが、あがった遺体を見て涙が出たことは一度もなかった。そのことで非情な人間と思われ、「おめえ人間か?」と罵られたことも一度や二度のことではなかった。吉田はその度に「なに?人間かって?そんなのでいちいち泣いていたら仕事にならねえ」と切り捨てていた。

 だが変わり果てた沼田を見ていると、涙が溢れてきた。「主任、主任」と寄ってくればかわいいものだった。

 あのとき、自分が自衛隊に行くのを許さなければ…。沼田は自分の元で働いていたに違いない。そうすれば守ってやることができたはずだった…。

 吉田は自分の人生に後悔という気持ちを持つことは稀だった。「後悔してもしかたがねえ」と前を向いて気持ちを奮い立たせてきた。だが今度の後悔はそうやって吉田が身軽にかわし続けて来た後悔とは違う種類のものだった。例えようのない色合いを帯びた後悔だった。

 

 「いろいろとお世話になりました」と父は弱々しく言った。

 体育館の中には、服を着たままの遺体が他にも数十体ほど並べられていた。吉田は沼田の本人確認が済むと、遺体を早く棺の中に入れてほしいと思った。遺体が遺体のままでさらされているのは良くないことだと思った。だが、両親の前でそれを言うことはできなかった。

 それどころか、ほとんど何も言えなかった。呆然とする父親と、「なおきー」と泣き崩れる母親。ビニールシートに覆われ、無言で横たわる沼田。父は男手一つで沼田を育てた。母は長く離れて暮らしていて、震災の末にこうして息子と対面したのだ。何も言葉にはならなかった。吉田はただ脇の方に引き下がり、連絡をくれた警察官に礼を言って、その場を立ち去った。

 

 

 震災からひと月経った頃、やっと貞山堀のカタがどうにかつきそうな予感がした。それは目にみえる前進であり、終わりが見えなかった日々に一つの区切りのようなものが見えた瞬間だった。

 ただ貞山堀運河の他にも行方不明者が見つかりそうな水辺は他にもあった。増田川、八間堀と呼ばれる小さな川もあったし、広浦と呼ばれる海沿いの入江は特に面積が大きかった。

 にもかかわらず、その頃自衛隊は引き上げを検討し始めていた。その頃には発見される遺体の数は著しく減り始め、これ以上探しても成果があがらないということもあった。

 吉田は違和感を感じ、申し入れをした。

 「もう少しやった方がいいんじゃないの?これから見つかった人と見つからなかった人の差も出てくるし。精一杯探さないと」

 吉田は市長を含めた会議の場で、全体にそう提案した。だが意見も虚しく、自衛隊は撤退を決めた。「これから先は警察と消防で」ということになった。

 他の被災地に人員を移動させなければならない状況にもあった。当時、名取市のがれき撤去作業は県内の被災地の中でもかなりの早さで進んでいる方であり、まだまだ人の手が届かない地域は他にもたくさんあったのだ。吉田にもそのことは理解できた。

 結局、警察と消防とで地元の人間だけで捜索を継続することになった。だが、自衛隊がいた頃に比べると、人員は大幅に削られ、捜索は一気に細々としたものになった。吉田たちの活動も一応の区切りとなった。その時点で名取市全体

でもまだ何十人もの行方不明者が見つからないままだった。心残りはあったが、吉田は今後自分が何らかのかたちで復興事業に携わる事があれば、工事の合間にできる限りの捜索を続けようと考えた。

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