8 復興の中の吉田 

 

 

 1

 

 

 2011年が終わろうとしていた。その間に目を覆うばかりだった町の風景も少しずつ変わっていった。自衛隊はいなくなり、捜索も大々的には行われなくなった。田畑から瓦礫が取り除かれ、その上を力強く育った雑草が覆い尽くし、震災の痛ましい風景を見えないものにした。人々はその変わりように複雑な気持ちを抱いた。町の復興が進むことは歓迎すべきことだ、というのが世間一般の考えだった。一方で被災した人の中には、痕跡が日々薄れていくことが果たして歓迎すべきことなのだろうか、と感じる人も少なくなかった。

 彼らにとって津波に破壊された町はかつての思い出の場所であり、家々の残骸である瓦礫もまた自分たちの暮らしの一部であった。瓦礫に「我歴」という当て字を当ててそのことを表現する人も中にはいた。当然、復興のためにそれらが不要なものとして撤去されることに人々は心を痛めた。

 

「壊れた家をそのままにしておいて欲しかった」

「街の記憶が取り除かれていく」

「街の復興に心の復興がついていけない」

「復興イコール破壊だ」

 

 それでも復興という大きな流れを変えることはできなかった。日本中が復興に期待を寄せていたし、マスメディアが「希望」という言葉を繰り返し用い、その期待を増幅させもした。

 何よりも復興は当の東北沿岸の人々が求めているはずのものだった。別の言い方をすれば人々は復興を必要とし、またその復興によって傷ついてもいた。巡る季節の中、かたちのない矛盾が人々の心に静かに横たわっていた。

 

 年が明け、東北の凍てつく寒さがやってきた。空気が乾燥し、手はかじかみ、顔の皮膚がこわばり、時には耳まで痛くなる。その寒さはある種の不吉さを伴って、人々にまたあの三月十一日がやってくるということを否応なく思い起こさせた。

 いや、ある意味では人々はあの震災を思い出す、というほど遠く離れた場所に来てはいなかった。誰もがあの日から大きく歪んでしまった日常を抱えながら日々を送り、その歪みから逃れられないでいた。毎朝プレハブの仮設住宅で目を覚まし、支援物資のテレビをつけるとNHKが復興支援ソングの『花は咲く』を流している。ようやく見つけた仕事の帰り道、いつもの道でつい閖上に向かって交差点を曲がろうとしてしまう。ウィンカーを出してから、はたと気づく。

「あ、閖上、なくなったんだ…」

 震災の爪痕は日常のあらゆる場所に現れ、人々はその逃れられなさにようやく気づきはじめていた。これまでも、これからも、震災とともに生きていくしかないのではないか、と。

 にもかかわらず、「あの日」は人々の中に異様な存在感を持ってにじり寄っていた。凍てつく寒さ、重い鉛色の空、テレビ番組が始める「あの日」へのカウントダウン。それは不吉な足音のように人々の脳裏にゆっくりと、しかし確実に忍び寄っていた。

 

 

 吉田の暮らしも少しずつ変化していった。貞山堀の捜索が終わる頃になると避難所を出て、市役所の近くにアパートを借りた。

 夏が過ぎ、自衛隊が引き上げ、捜索がひと段落した頃、吉田は家族を連れて岩手県の鶯宿温泉に一泊二日の家族旅行に出かけた。震災で家族二人に心配をかけた埋め合わせの意味もあった。震災の日、妻と息子が止めるのも聞かず、目の前でホースを体に巻いて津波に飛び込んだ。避難所暮らしになってからも、毎日捜索に出かけていたためにそばにいてやることができなかった。おかげで支援物資ももらえず、大きな余震が来ても妻と息子は二人で震えているほかなかった。そんな苦労をどこかで埋め合わせようと思ったのだ。山の中の宿に着き、温泉に浸かると久しぶりにゆっくりとした時間が流れた。家族同士、改めて「生きていてよかったな」と確かめ合ったりもした。

 

 その頃、人々は街へ戻るかどうかをめぐって大きく揺れていた。市の復興計画が内陸移転を目指すのか、それとも沿岸部での再建になるのか。議論が紛糾していた。ある人は津波の恐怖があるところに、どうしてもう一度住まなければいけないのかと憤った。一度津波にやられてしまった街は、またいつかやられるに違いない。とても安全とは言えない。多くの人の脳裏に巨大津波の残像が消えずに残り、見えない恐れを抱かせていた。

 だが街に戻ろうとする人の数が激減していた理由は単純な恐怖だけに止まらなかった。見つかっていない人が今も眠る場所に家を建てて、のうのうと暮らせるわけがない。あるいは仮に全ての人が見つかったとしても、そこに家を建ててあははと笑って暮らせるものだろうか。それは犠牲者の無念に対する冒涜を含んでいるのではないか。そうした罪悪感が人々を立ち止まらせた。

 ただその考えも、よくよくみれば矛盾をはらんではいた。震災などやってくる前の平和な町も、実は大昔の合戦の跡地であったかもしれない。どこぞに名も知らぬ落ち武者の魂が眠っていて、震災犠牲者と同じように無念を抱いたまま長らく横たわっていたかもしれない。いや、ことは人間の無念だけにとどまらないとも言えた。虫や動物やあらゆる生命が毎年のように命を閉じ、その亡骸の上に人々は街を作り、豊かさを享受してきたはずだった。

 それは人々の生の営みの中に、ある種の残酷さが本来的に含まれていることを意味していた。そうであれば、震災の犠牲者が眠る場所だけを特別に扱うというのも、いかがだろうか…。

 とはいえ現実としてまだ瓦礫の片付かない街に家を建てて暮らし始めるという考えに、多くの人は気持ちがついてゆけず、心をざわめかせずにはいられなかった。内なる矛盾を抱えながら、人々はその矛盾とともに暮らしていくほかなかった。

 

 ただ、吉田に関して言えば、そのような葛藤はある意味無縁だったと言えた。程なくして吉田は小さな事務所を構えることにした。津波で被災したものの、かろうじて流されずに残った知り合いの物件を借りて、割れたガラスを補修し、事務所を再開した。吉田は人々が散り散りになった町にいち早く戻ってきた、数少ない一人だった。

 

 吉田が考えていたのは、知り合いの家が津波で壊れてしまい、借り手もいなくなっていたところだったので、ちょうど吉田が借りれば相手も助かるだろうと考えた。

 その頃請け負っていた仕事は細々としたものだった。役所から発注される、主に被災して仕事がなくなってしまった人々のための一時的な救済策で、海岸や田畑に残された瓦礫を撤去すると市から日当がもらえるというものだった。海水浴場のアルバイトだった若者たちも吉田を頼って入ってきていたために、彼らに仕事を割り振り、生活に困らないようにした。

 吉田はそれが終わると、これからやってくるだろう建設業界の復興事業に参入するための準備を始めた。建設業者としての登記をし、事務員と現場の作業員を揃え、潜水道具や車を整えた。

 

 また事務所の一角に若者たちの悩み相談ができる場所を作った。悩みと言っても、人生相談というよりは、生活の相談に近かった。震災ですべてを失った若者たちが元の暮らしを取り戻すためのサポートをするための場所を用意したいと考えたのだ。例えば今から部屋を借りたいけれどもどうすればいいのか、新しく仕事を探すにも名取で探すべきか、仙台に出るべきか、いろいろな生活の悩みが若者を取り巻いていた。吉田はそれを『希望塾』と名付けた。

 

 

 2

 

 

 震災からちょうど一年経ったその日、吉田は海水浴場の若者たちを連れて朝一番に沼田の墓参りに行った。沼田の父親が来る前に行こうと思い、朝六時に行った。 

 

 沼田と一緒に海水浴場でアルバイトをし、沼田の捜索に加わった若者たちのうち、何人かはそのまま吉田の会社に入っていた。みんな知っている顔ぶれだった。

 吉田は沼田の墓前でこの一年のことを報告した。今年の夏はどうにか海水浴場を再開したかったが、東北中が喪に服している中、時期尚早だという声が多数を占めていた。吉田はなるべく早く元の街に戻すためには海水浴場を再開したほうが良いと考えていた。

「再開したら必ず沼田も連れて行くからな」

 吉田は心の中でそう声をかけ、沼田が好きだったコーラやビールにタバコも供えた。線香をこぼれるくらい山盛りに供え、若者たちと「おい、これじゃ熱いんじゃねえのか」と笑い合った。

 

 吉田は沼田の父親のことも気になっていた。息子の命日に挨拶をしに行こうという考えもよぎったが、父親の気持ちをあれこれと想像した結果、結局やめることにした。

 吉田は父親の気持ちをこんなふうに想像していた。亡くなった自分の息子と同じ年頃の仲間を連れて行って仏壇に手を合わせる。父親は快くみんなを迎えてくれるだろう。

 「よく来てくれたね、ありがとう。いま、みんなどうしてるの?」

 「吉田さんのところで頑張ってます」

 「そうなの。頑張ってね。ありがとうね、来てくれて」

 「はい…。」

 だが帰り際、若者の後ろ姿を見たときに、父親はどう思うだろうか。来てくれて良かったなと思うか。それともうちの息子も生きていればああいうふうに仲間同士で笑って…、と思うか。両方の気持ちがないまぜになる父の胸の内が想像された。しかしやはり生きている若者たちを恨めしく思うような気持ちが勝るような気がした。父親はことあるごとに思い出すのではないか。街を歩いていて似たような年頃の若者を見ると思わず息子だと思ってしまうのではないか。そこに追い打ちをかけるように若者たちを連れて行く必要はないのではないか。

 あるいは自分が沼田の父だったら若者たちに来てほしくないと思うかもしれない。そっとしておいてほしいと思うかもしれない。

 そうであれば父親に知られずに墓参りに来た方がいい。後から墓に来た父親が山のように積まれた線香を見て、「ああ、忘れないで来てくれたんだな」と思ってくれた方があるべき弔いのような気がした。

 

 

 

 震災から一年が過ぎ、吉田に再び行方不明者捜索の機会が訪れた。警察や自衛隊による最後の捜索が打ち切られてから、およそ半年が過ぎた頃のことだった。市内の数十名の行方不明者の家族の嘆願によって、再び捜索が行われることが決まったのだ。

 被災した人同士のあいだで次第に温度差が大きくなりつつある時期だった。ある人は仕事を見つけて津波の被害のなかった土地に引っ越し、新しい生活を始めていた。またある人は仮設住宅に踏みとどまって街の復興を今かと待ちわびていた。

 そんな中、「復興」という言葉に取り残されるように深い悲しみの中にある人たちがいた。未だ行方不明のまま見つからない人々の家族だった。あの日から突然家族の消息が途絶えてしまった彼らにとって、家族がどこかで生きているのか、あるいは津波で亡くなってしまったのか、それを知る手がかりさえなかった。

 彼らの心は深く傷ついていた。震災直後から避難所をいくつも回り、遺体安置所で無数の遺体と対面し、捜索の現場にも赴いた。しかしどこを探しても家族はいなかった。自衛隊や警察が半年ものあいだ探し尽くした後、いったいどこにどんな可能性が残されているのか。様々な憶測がなされ、議論され、その度に心がすり減っていった。

 ある人は、田んぼの土の中に埋まっているのではないかと考えた。震災直後、多くの遺体が田んぼの瓦礫のあいだから見つかっていたため、土を掘り返せば出てくるのではないかと考える人がいた。とはいえ土を掘り返したとしても、どの層までが津波で運ばれてきた土で、どこからが元々の土なのか、その見極めは難しかった。

 さらに田んぼの捜索を難しくしていたのは、海から津波で流されてきた船だった。大方の瓦礫が取り除かれた後も、撤去されないままの船が田んぼの真ん中に傾いたまま放置されていた。自衛隊も警察もさすがに動かない船の下は捜索できなかっただろう。だとすればその船をどかせば見つかるかもしれない、と考える人もいた。

 またある人は、家族は津波の引き波にさらわれて海まで流れていったのではないかと考えた。実際、三陸地方のように狭く入り組んだ海岸線の街では引き波の勢いは相当なものだった。ただ、平らな仙台平野では、三陸ほどの強い引き波があったわけではなく、一度内陸に流された人が何キロもの平野を流されて海に流れていったという推測に疑問を呈する人もあった。とはいえ、行方不明者家族にとって、可能性の大小は問題ではなかった。海岸からほど近い海の底を底引き網のようなもので掬い上げれば、行方不明者が見つかるかもしれない…。そう考える人もいた。

 

 そんな行方不明者家族たちにとって、「復興」という言葉は必ずしも歓迎すべきものとは限らなかった。むしろ彼らにとってその言葉は大きな矛盾をはらんだ、のっぴきならない事態を意味していた。復興が進めば行方不明の家族との再会の可能性が消えてしまうのではないかという懸念があったからだ。

 更地になった土地に土が盛られ、新しい街が作られていくことは、復興の過程で避けられない。彼らとしてもそのことはわかっていた。しかし、未だ見つからない自分たちの家族が横たわっているだろう土地に重機が入り、土が踏みならされ、新しい街が出来る。やがて人々が暮らし始め、土地の下に眠っているかもしれない家族のことは忘れられてしまう。深い悲しみもなかったことにされてしまう。それは一部の行方不明者家族にとって耐え難いことだった。

 そんな思いから「見つからないうちは町づくりを始めないでほしい」という本音を漏らす人もいた。だがこの悲痛な叫びも、一部から反発を買うことになった。「行方不明者が見つかるまで復興が進まないなど、復興の足かせでしかない」という見方をする人もあり、風当たりは強かった。

 

 一部の被災者が「復興」という言葉に懐疑的にならざるを得ない理由は他にもあった。復興に携わる人々が被災者の気持ちを逆なでにする出来事が度々起きていたからだった。ある時こんなことがあった。「がんばろう東北」という垂れ幕を張ったトラックが復興作業のために更地になった街に入ってきたときのことだった。土木工事の合間の昼休みにタバコを吸った作業員が、大量の吸い殻を捨てていったのだ。

 

 褒められたことではないにせよ、タバコのポイ捨てというのは通常の工事現場では珍しいことではなかったかもしれない。だがそれが震災の被災地となると、全く違った意味合いを帯びることとなった。被災した人々にとっては、街は特別な場所だったからだ。たとえそこが更地になったとしても自分たちの町であり、未だ見つからない家族が眠る場所だった。それは長年生きてきた古い記憶を振り返り、取り返しのつかない惨事の跡を見つめ、それぞれの生を静かに見つめるための冒されざるべき場所だと言えた。

「被災地に平気でゴミを捨てていく人間が、どうして復興支援などできるのか」

 そんな怒りが地元の人々のあいだに沸き起こるのも、もっともなことだった。

 こんなこともあった。ある時、被災地を見学に来たバスツアーの乗客が、トイレが近くになかったためか、慰霊碑の近くで立ち小便をした。近くにいた遺族が激しく怒り、それをその時たまたまいたテレビカメラが映し、番組で放送してしまった。その放送を見た地元の人からは「怒りはもっともだ」という声もあれば、「そんなに怒ると復興支援に人が来てくれなくなる」などいろいろな声があがった。

 

 吉田自身も、のちに信じがたい場面に直面したことがあった。震災後に復興事業として仙台港で浚渫工事をしていた業者と話していた時のことだった。海底から人の顎の骨らしきものが見つかったが、「めんどくせえから捨てた」というのだ。理由を尋ねると、「作業が遅れるから」というものだった。

 たしかに工事中に人骨が見つかると警察を呼んで現場を検証したり調書を作ったりせねばならず、工期の遅れに繋がりかねない。工期が遅れれば元請け業者に対する違約金が発生したり、次の仕事が取れなくなったりという不具合が出てくる。その意味で、工事現場で人骨が見つかることは「やっかいなこと」ではあった。吉田にもそのことは理解できた。だが震災後に少なくない行方不明者の家族が必死に捜索をしている中、少なくとも通報をすべき事案ではあったはずだった。

 いずれにしても復興の現実は世間が思うほど美しくもなく、簡単でもなかった。にもかかわらず、復興の負の側面はほとんど世間に知られることがなかった。マスメディアの多くは復興を「希望」という言葉と結びつけて語り、耳障りの良いストーリーに仕立て上げた。そしてそこから外れるものは排除されることも少なくなかったのだ。

 

 そうした中にあって、吉田はある意味で「まともな」業者として期待されている面もあった。吉田は地元の人間であり、自らも被災しているため、被災者の気持ちになって作業に従事してくれるだろう。そう期待を寄せる人もあった。実際、行方不明者家族の中には吉田の会社を「心ある業者さん」と呼ぶ人もあった。

 

 「潜匠建設さんに手を貸してもらえることになりました。少しは期待が持てます」

 

 8か月の息子の母親はブログにそのような内容を綴っていた。吉田はそれを知って、自分の仕事の意義を改めて感じた。それは使命感に近い感情だった。なんとか見つけてやりたいと思った。

 もちろん仮に見つかったとしても、それで家族が単純に喜ぶかといえばもちろんそんなことはなかった。むしろ吉田の仕事の成果は、家族の亡骸の発見という厳しい現実意味する。家族にとってその重さは計り知れないものとなるに違いなかった。それでも家族の願いは捜索が継続されることだった。そうであれば吉田は全力で取り組んでできるだけのことをしたいと思っていた。

 

 捜索初日の朝、岸壁には息子を探す父親の姿があった。今まで岸壁にやってきた家族がそうであったように、父親の表情には厳しいものがあった。

 「もう一年が経ちますが、小さな子供でも見つかりますか?」

 不明者である子供の父親が吉田に尋ねた。吉田は躊躇した。安易に期待を持たせるべきではないし、かといって厳しい現実を突きつけることも憚られた。

 そして今回の震災に関していえば、震災前までの仙台港での捜索経験はほとんど役に立たなかった。吉田が経験を重ねてきたのは、目撃証言があり、おおよその場所も特定されている現場だった。だが、街がまるごとひとつ無くなってしまった今回の震災ではまったく状況が違った。いったいどれくらいの確率で見つかるのか、吉田にとっても全てが不透明だった。ただ言えることは、時間が経つにつれて可能性が低くなるということ、そして、同時にそれでも希望がないとは言い切れないことだった。

 

 「可能性はゼロではないですが、太平洋に落とした針を見つけるようなものです」

 

 可能性はゼロではない。吉田はいつかと同じことを言っていた。それはかつて閖上の浜辺をサンドバギーに乗って父親とともに行方不明の息子を探した時のことだった。何日探して見つからなかった末、父親に「もう見つからないですよね」と問われた。吉田はその時同じことを言い、父親は再び海に向かって息子を探しに行った。

 その父親の後ろ姿は、吉田の中で長くわだかまっていた。吉田が煮え切らない表現をしなければ、あるいは父親の心に何らかの区切りをつけることができたかもしれない。

 

 吉田はまたいつかの別の引き上げのことを思い出した。十年近く行方不明になっていたある人の娘を、吉田が工事中にたまたま見つけたことがあった。その時に父親が「いくら探しても見つからなかったけれど、やっと戻ってきたね」と言った。

 今回の震災の行方不明者の家族もその時の親と同じように言うだろうか。それとも精も魂も尽き果てて、泣き崩れるのだろうか。その後の日常をどのように生きていくだろうか。

 ただ吉田にはどれだけ想像しても家族が行方不明の人の気持ちはわからなかった。自分は所詮、家族を亡くしていない人間なのだ。自分には彼らの気持ちを理解できるだけの人生の深みのようなものが欠けている気がした。ただ自分にできる手助けをする。それだけのことでしかなかないと自分に言い聞かせていた。

 

 

 

 捜索の朝、閖上の港の岸壁には経験豊富なダイバーが全国から集まっていた。中には関東でレジャーダイビングのインストラクターとして生計を立てていた熟練ダイバーもいた。遺体捜索とレジャーダイビングといえば、かなりの隔たりがあったが、そんな畑違いの業界からもダイバーがやってきていたのには理由があった。

 震災で関東のレジャーダイビング業界は大打撃を受けしまっていた。震災後に海に対するイメージが大きく変わってしまったためだった。「東海地震」、「南海トラフ」という言葉がメディアを飛び交い、あの恐ろしい津波の映像が再び現実のものとなるのか、という恐怖からか、海で遊びを楽しむ人の数は激減してしまった。当然、新しくダイビング講習を受けようという人も少なくなった。仕事もなくなり、ふだん若いOLなどを相手にダイビングの免許を取らせることで生計を立てていたダイバーが仕事を探して被災地で再開された遺体捜索に加わることになったのだ。

 

 捜索が始まり、黒いドライスーツを装着したダイバーたちが次々と海に潜っていった。一帯にはスピーカーから流れるダイバーたちの奇妙な呼吸音が響き渡った。フーカー式の有線マイクが海中のダイバーたちの呼吸音を拾う音だった。スーハースーハーという喘息患者の荒い息遣いのような音に混じって、コポコポという水の流れる音も辺りに響いた。

 何事もなく最初の数日が過ぎ、やがて何日か目に、港の水の中から女性のキャミソールが見つかった。他にも幾つかの遺留品が見つかってはいたが、このキャミソールが特別だったのは、そこに一本の毛髪が付いていたことだった。この毛髪の発見に現場の作業者たちはざわめいた。髪の毛。それはまぎれもない人体の一部であり、行方不明者情報の有力な手がかりとみなすことができた。

 とはいえキャミソールに髪の毛が付いていたからといって、そのまま行方不明者の発見につながるかといえば、もちろんそうではなかった。むしろ冷静に考えれば、キャミソールは震災当時誰かが着ていたわけではない可能性も十分にあった。どこかの家のリビングにくしゃくしゃのまま置かれていて、絨毯に落ちていた髪の毛がたまたまついたのかも知れなかった。あるいは着ているときに知らずに髪の毛がついてしまったまま、それをハンガーにかけたり箪笥にしまったりした可能性も充分にあった。

 だから髪の毛のついた衣服が見つかったからといって、津波の直前まで誰かがその衣服を着ていたと考えたり、あるいはその衣服のそばに行方不明者の遺体があるかも知れないと考えるのは合理的とは言えなかった。

 だがそうとわかっていても、髪の毛というまぎれもない人体の一部の発見に、作業者たちのあいだにかすかなざわめきがおきた。潜っては海底をくまなく探す、という単調な作業が繰り返される中、髪の毛一本の発見は捜索の大きな前進として感じられたのだ。

 だが実際に、その毛髪を警察の鑑識に回してみると、行方不明者の手がかりにはならないことがわかった。仮に髪の毛に毛根が残っていれば技術的にはDNA鑑定が可能だったが、今回のキャミソールの毛髪には肝心の毛根が残っていなかった。よってDNA鑑定による行方不明者の照合作業は不可能とされた。加えて、その毛髪が仮に行方不明の誰かのDNAと一致したとしても、髪の毛一本の発見によってその人の死を断定することもまた合理的な判断とは言えなかった。

 岩沼署から戻ってきた鑑定結果は作業者たちや行方不明者家族を落胆させるものでしかなかった。

 結局、約二週間の捜索期間で行方不明者の手がかりになるようなものは見つからなかった。引き上げることができたのは、洋服などの遺留品だけだった。吉田は後ろ髪を引かれる思いがした。まだ捜索を続ければ発見の可能性があるし、行方不明者家族たちもそれを望んでいたはずだった。しかし、発見に至る前に作業を切り上げなければならなかった。

 

 この二週間のあいだに見つけた遺留品の中にはたくさんの衣類や写真などが含まれていた。それらの扱いをめぐって後に吉田は激怒することになった。

 捜索が終わってから数日が経ったときのことだった。吉田は引き上げた遺留品を社員の若者たちに丁寧に洗わせ、閖上小学校の体育館に一つずつ並べた。その頃、閖上小学校の体育館は思い出の品々が静かに陳列される、街で唯一の場所だった。震災直後、まだ街が一面瓦礫の海だった頃、被災した一部の人々がその瓦礫の中から写真や遺影やランドセルなどの思い出の品々を拾い上げて、洗浄し、綺麗に陳列する活動を始めた。その活動は一年以上も続き、持ち主がいつでも取りに来られるようにと、津波の被害で使われなくなった体育館に一つずつ並べられてきた。吉田たちも、見つけた品々を同じように陳列すれば、いずれ誰かが引き取りに来るかもしれないと考えたのだ。

 だが、陳列したことによって、市役所を通してある男からクレームが入った。こんなに汚いものを置かれては困る、という趣旨のクレームだった。海の底から拾い上げたものはヘドロにまみれていて、洗っても臭いの落ちないものがあった。

 しかし、吉田はそうしたクレームが入ったことに対して逆に激怒した。

「そんなことを言ったのはどこのどいつだ?」

 吉田は自分の事務所にその男性を呼びつけ、「臭かろうが汚れていようが、被災した人にとっては思い出の品だ」と言い募った。

 

  

 吉田はまた、経営者としても苦闘しつつあった。震災直後には復興関連の潜水の仕事がいくつも舞い込んだが、どれも断った。国や県から発注された事業も多かったが、全国から集まった事業者達が次々とそれらを受注していき、見切り発車的に下請け業者に流していた。

「とりあえず現場に来てくれ」という感じで、就労条件がはっきりせず、曖昧なものも多かった。規模の小さな吉田の会社はそれらを下請けとして受注する立場だった。残業代が出なかったり、出勤日数を曖昧に処理されるかもしれないと思った吉田は、そうした仕事に飛び乗ることはなかった。震災後の混乱期とはいえ、先が見えないリスクの高い仕事だと言えた。

 「焦る乞食はもらいが少ない」

 そんな言葉が頭をよぎった。難しい判断ではあったが、見送るほかなかった。行方不明者の捜索とは違って、自分たちが食べていくための仕事だった。復興が長引くとわかっていた吉田はこれからも仕事はたくさんあるだろう、と考えた。

 契約面での話がきちんと整うまで待つことにした吉田は、その間に知り合いに「時が来たら一緒にやろう」と声をかけた。震災から半年足らずの頃のことで、周りの知り合いもまだまだ困っていた。

 

 吉田は困っている若者たちに助け舟を出すことも忘れなかった。親や家族を亡くした若者たちがどうしたら良いか、ということで困っていた。これからどうするというときに、津波で車を流されて新しく車を買おうというとき、新しく部屋を借りたりするとき。銀行との取引やローンの組み方など、生活に直結した悩みの相談に乗りアドバイスを与えていた。相談相手になることができる。聞く相手がいるということは若者にとっても、良いことだった。

 

 震災の翌年になると、吉田の会社は少しずつ仕事を取っていった。就労の条件が整った案件が増え、「そろそろだな」と思えた頃、受注に踏み切った。

 同時に、人を雇い、会社を拡大した。当初数人でしかなかった従業員は十人、二十人と増えていき、三十人にまでになった。新しく社員になった者の中には潜水の免許を持たない若者もいた。だが「やる気さえあれば何とかなる」と考えた吉田は、一から潜水を教えて潜水士の免許を取らせ、仕事につけるように育て上げた。

 やがて吉田の会社は復興の波にうまく乗り、短期間に規模を拡大させた。震災の年にたった八百万円でしかなかった会社の売り上げは、次の年には八千万円、その次の年には八億円と、年を追うごとに十倍ずつ増えていった。

 それまで構えていた街の小さな事務所を離れ、より大きなプレハブの事務所を構え、そこに移転した。「このままいけば、しばらくは復興の需要に支えられるだろうな」という目測も徐々に立ち始めた。

 破産してゼロになり、震災で再びゼロになってしまった吉田だが、再び持ち直しつつあった。

 

 

 そんな合間にも、吉田は捜索のことを忘れてはいなかった。復興が進んでもどこかに捜索のチャンスは訪れるはずだと考えていたのだ。

 「これでもう終わりなんですか」

 吉田たちが最後の捜索を終えた後も、八ヶ月の息子を探し続ける母親は、涙ながらに訴えていた。 

 「名取市の捜索はこれで終わりです…」

 そう告げざるをえない名取市の担当者の言葉は、ある意味で非情な響きを放っていた。

 その時吉田は自分の会社が海の会社なので、必ず発注工事が入ってくる。工事に関わるときは必ずボランティアで捜索活動はさせていただきますと家族会の前で約束した。吉田はそのときの約束を忘れてはいなかった。

 自分が家族の立場であれば、同じように諦めきれないだろうと思った。少なくとも可能な限り捜索されるべきだと思った。だが、実際にはそのアイディアの実現は厳しいものとなった。

 

 

 

 復興への疑問は吉田の会社で防潮堤の建設工事を請け負ったときにも生じた。吉田は県が発注した防潮堤建設工事の下請け業者として地元の閖上港の建設工事に加わることになった。その際、震災で壊れた海底の消波ブロックを撤去する行程があったのだが、吉田はその撤去の行程の前後にダイバーによる目視の捜索過程を入れることを提案した。ブロックの撤去前に目視、撤去最中に、そしてブロックが撤去されたあとにも目視を入れるべきだ、と。特に増田川という小さな川と港との接続部分では水の流れが潮の干満差によって早くなってしまうため、ブロック撤去直後に探さなければ、行方不明者の遺体や遺留品が流れてしまう可能性があった。

 吉田にはこれが復興が進んでしまう前に行方不明者の捜索が行なわれる最後のチャンスだと思えた。この段階できちんと捜索をするかしないかで、行方不明者の家族の気持ちも違ってくるだろうと考えた。元請け業者も吉田の提案に当初は理解を示した。

 だが目視作業を入れると、本来なら2日で終わるはずの行程が4日くらいかかってしまう。当然、元請け業者は工期が遅れてしまうことに難色を示した。ただ、吉田はその遅れを別の行程を短縮することで取り戻す自信があった。そのことを伝えたが元請けの担当者に「そんなことはしなくていいから、とにかく工期に間に合わせてくれ」と言われてしまった。元請け業者は震災後に県外から入ってきた業者だったため、吉田にはその返答が被災者かそうでないかの温度差に思えた。 

 結局、このことがもとで発注元の担当者との関係がこじれ、最終的には吉田の会社は現場に来ないでくれと言われた。吉田たちは現場から外されることになり、一億円の仕事がふいになった。「可能な限り捜索を続けていく」という行方不明者の家族との約束を守ろうとしたために仕事を失うことになった。そしてその約束さえも果たすことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3

 

 

 歳月はあっという間に過ぎ、震災から五年目の三月十一日がやってきた。あの日と同じように晴れた朝だった。プレハブの社屋に日の光が注いでまぶしかった。向かいには新しい四階建ての社屋が出来つつあった。復興事業で会社が大きくなったため、銀行から融資を受けて新たな社屋を建てたのだ。非常事態には地域の避難所として、解放するための機能を加えた。

 津波が来た時に高い建物がなかったために逃げ遅れてしまった人がいた教訓からだった。千年に一度と言われた震災だったが、万が一同じような震災が起きた時、同じ過ちを犯さないための何かを行動に移さなければいけないと考えていた。

 

 この日、吉田たちは捜索活動のために閖上港に潜ることになっていた。最後の捜索がなされてから時間が経っていたが、警察や保安庁も含めて時折捜索活動が細々と続けられてきた。月命日になると、警察が棒を持って田畑を捜索したり、保安庁の隊員が海に潜る風景がテレビに映し出された。吉田も節目となる5年目に何かをしたいと考えていた。

 

 5年のあいだに閖上の町も少しずつその風景を変えていた。家々の跡地は相変わらず更地のままだったが、使われなくなった中学校の校舎は取り壊され、新たな町を作るためのかさ上げの土が少しずつ盛られ始めていた。あの日吉田たちが逃げ込んだ小学校の校舎も解体されることが決まっていた。

 松林が豊かだった砂浜には、かろうじて津波に耐えた何本かの松が残り、その松林と入れ替わるようにして、今や巨大な防潮堤が出来つつあった。クレーンのアームが伸び、土砂をいっぱいに積んだダンプカーがほこりを巻き上げながら往来し、ユンボが延々と土をかき分け、作業服を着た人々がコンクリートの斜面に小さく張り付きながら黙々と業務をこなしていた。

 海上保安庁のヘリコプターがバラバラと音を立てて上空を通過し、ときおり仙台空港から飛び立つ飛行機が沖の空へと小さくなっていった。

 遠い蔵王の山々にまだうっすらと雪が残っていたが、長い冬にようやく終わりが見え始め、遅い春がすぐそこまでやってきていた。

 港を吹き抜ける風はあくまで冷たかったが、紺碧の海に柔らかな日差しがきらめいていた。それはあの日人々を恐怖へと追いやった、牙をむくような自然の厳しさとは違った、穏やかな海の表情だった。

 時の流れは緩やかだった。未だ果たせぬ「復興」という言葉に痺れを切らせた町の人々にとって、時はあたかも止まったように感じられたこともあった。だが時は動いていた。緩やかに、静かに海辺の町を流れていた。

 

 浜辺ではボランティアグループが砂の中を捜索していた。震災以降何年ものあいだ、町の側溝を中心に懸命に捜索を続けてきた地元の団体だった。その近くで吉田たちも港の海中捜索を開始することになった。作業に取り掛かる前に、皆が海に向かって一列に並び、黙祷を捧げた。続いて吉田が捜索開始の挨拶をした。吉田は、目的はあくまで行方不明者の捜索だが、遺留品があれば小さなものでも引き上げてほしい、と言った。

 もう吉田自身は海の中に潜ることはなかった。自ら育てた若い潜水士たちに任せ、自分は陸上から指揮を取る体制に変わりつつあった。もし何か難しい局面になれば自分が潜ることも考えたが、何事もなければ吉田の出番はないだろうと考えていた。

 捜索が始まると、港にはいつものようにスピーカーから流れるダイバーたちの呼吸音が響き渡った。フーカー式ダイビングの有線マイクが水中のダイバーたちの呼吸音を繰り返し拾い、その音に混じって海流がマイクに当たるコポコポという音も聞こえた。

 

 

 スーハー。スーハー。スーハー。

 

 

 海底の捜索にあたる五人のダイバーの中にはの姿もあった。亡くなってしまった沼田と一緒に雇った、新たな会社の初めての社員だった。出会った頃は海水浴場でフェンスに海水パンツを引っ掛け、「おじさん、オレ、泳ぎ得意なんすけど、バイトとか雇ってないんすか」と軽口を叩いていた地元の高校生だった。

 

 今もやんちゃな若者には変わらなかった。つい最近も危ういことがあった。車に乗ってドリフトをしようとして失敗し、大破させてしまったのだ。肋骨が肺に刺さり、集中治療室に運ばれる重傷だった。事故現場で電柱に巻きついた車を見て吉田は「助からないな」と思ったが、笹木は奇跡的に生きていた。

 「オレ、会社クビになるんすか?本当にすみません。なんとかクビにしないでもらえませんか」

 病室で面会した時は青ざめていただった。が、二ヶ月近く入院すると、回復して再び前と同じように現場で潜り始めた。

 

 しかしこの6年の間に確かな成長もあった。がこれから潜水士になろうという頃にはテレビの取材が来たこともあった。水難救助の分野で頑張っている若者としてテレビで取り上げられ、笹木が潜水服を着て訓練している様子が放映された。それは広い意味で復興に向けて頑張る若者という前向きなストーリーだった。

 無事に潜水士の資格を取ると、土木の現場で潜り始め、ようやく潜水士としてのスタートラインに立った。そして今、土木だけでなく、震災の不明者の捜索にまで活動の幅を広げている。それは若者ならではの、確かな成長と変化だった。

 

 

 笹木だけではなかった。多くの若者が吉田を頼って会社に入ってきた。ひとくちに若者と言っても様々だった。真面目すぎて周囲に溶け込むのに苦労している者や、ガールフレンドをとっかえひっかえしているお調子者もいた。将来が見えずに悩んでいる者や、中には震災で家族や親戚を亡くした者もいた。

 だが、どの若者を見ても吉田が感じることは、社会の隅っこにしがみつき、慣れない仕事を覚えていく一生懸命さだった。多少向こう見ずで危なっかしいところがあったとしても、彼らは混じりけがなく素直でみずみずしい存在に見えた。

 

 「お前らダイヤモンドの原石だ。けれども磨かなきゃ光んねえ」 

 

 厳しく指導しつつも、吉田は彼らを可愛がった。恋人ができて浮き立っている若者を見ると、何とはなしに吉田も嬉しくなったりもした。

 「これで彼女に服でも買ってやれ」

 そう言って金を渡すと、「マジすかー!?ありがとうございます」と、パッと弾けるような笑顔を見せる。

 彼らはまだ半人前であるに違いなかった。金もたくさんあるわけではない。けれどもやっとの思いで恋人ができ、少ない金のやりくりをして可愛らしい服を買ってみたり、小さな旅行に連れて行ったりする。それがたとえ安い服、安旅館であったとしても、彼らはかけがえのない時間の中にいるように思えた。

 

 かつて吉田は土建屋の社長に「おめえ、いま何が欲しい?」と聞かれて「歳が欲しい」と答えたことがあった。だがあれほど欲しかった年を重ねてみると、今度は若さの中に含まれたかけがえのなさがどこか眩しく見えていた。吉田はもうすぐ五十歳になろうとしていた。

 

 

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 結局この日も、行方不明者の手がかりになるようなものは見つからなかった。海底から見つかったのはそろばんのケースのようなものが一つだけだった。正直なところ、もうこれ以上港の中を探してもめぼしい成果に繋がらないように思えた。

 五年が過ぎて、捜索もある程度の区切りの年になるかもしれないと考え始めていた。決して探さない方がいいということではなく、探したくないというのでもなかった。ただ、探しても行方不明者の家族の期待に応えられる可能性が現実的に低くなってきていると感じていた。そしてその現実が行方不明者家族を苦しめることになっているのかもしれないと思うようにもなった。

 

 震災後に打ち切られてしまった捜索が約一年後に再開された時は、吉田も意気込んでいた。少なくとも一人か二人は見つかるのではないかという算段もある程度立てていた。しかし二週間探しても手がかりになるものは見つからなかった。そしてその後も何度か捜索の機会を得たが、いずれも行方不明者の発見には至らなかった。

 見つかるかもしれないと思いながら現場に赴き、成果が上がらずに1日が終わる。それを繰り返していると、あるはずの手応えが徐々に薄らいでいった。だが吉田はその遠ざかる感触のことを行方不明者の家族たちに言えずに長い時間が過ぎていた。

 

 いつしか吉田の中で「見つける」ことよりも「見つからないことをはっきりさせる」ことに比重が置かれつつあった。もしこのまま捜索を続けても見つからないのであれば、その時に吉田ができることは何か。それは「やれることはすべてやった」という事実を提示することでしかない。それが不明者家族の終わりのない葛藤に、なにがしかの区切りをつけることにつながるかもしれない。そんな思いがあった。

 

 一方で、五年が過ぎた時点でも家族を探している人々の気持ちが変わらないことはよくわかっていた。彼らはこれからも何らかのかたちで家族を探し続けるだろう。たとえ具体的な捜索活動ができないときでも、心の中ではずっと家族を探し続けていくだろう。   

 閖上の浜辺で息子を探していたスーパーマーケットの店長が、「ありがとうございました」と言って、再び海に向かっていったように。それは人の親として自然なことであると思えた。もし、自分自身の家族が行方不明になっていたら、自分もまた終わりのない捜索を続けていたに違いない。

 吉田の中でかたちのない矛盾が軋んでいた。見つからない現実と探し続ける家族たち。相反する二つの事実のぶつかり合いに、吉田自身もどうすることもできないでいた。そしてそんな不条理の中で、吉田は自分の小ささのようなものを感じることがあった。

 

 

 冷たい風の吹き抜ける港の中、紺碧の空にひとひらの雲が浮かんでいた。まだ白く雪の残った蔵王の山々から吹き降ろした風が、太平洋にぶつかってできた雲だった。

 どこへ向かうのかわからないまま、少しずつかたちを変えながらゆっくりと流れていく雲。青い空にぴたりと張り付いたその雲は、音もなくゆっくりと、しかし、たしかに動いていた。

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