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 マニラに最初に渡航したのは2011年の2月のことだった。そのときぼくの頭の中には「スモーキーマウンテン」と呼ばれる、巨大なゴミの山で働く人々のヴィヴィッドなイメージがあった。その巨大なゴミの山のことを知ったのは、とある日本人写真家のモノクロ写真集によってであったが、今となってはその写真家が一体誰だったのか、またそのモノクロ写真集にどんなものが映っていたのかも正確には忘れてしまった。ただ、その写真集がぼくに残した強烈なイメージがぼくをその場所へと駆り立てていた。マニラ湾に面したうず高いゴミの山と、そこから絶え間なく発生するガス煙。その傍らでゴミを選り分け、生計を立てる子どもたち。そんなイメージだ。

 

 ぼくがなぜそうしたイメージに駆り立てられたのかは定かではないが、それはおそらくは学生の頃に訪れたロサンゼルスのスキッドロウというスラム街での体験と関係があると思われる。アメリカ横断の旅の中で立ち寄ったロサンゼルスのリトルトーキョーからたった数ブロックの貧民街。たまたま足を踏み入れたその場所に、やはりぼくは引き寄せられるような、駆り立てられるような特別な感情を抱いた。その当時のことを書いた文章の中から一部を引用してみる。

 

 「ある種の危うさのようなものだろうか。それとも人間が生きてゆく上で本来的につきまとう不確かさのようなものだろうか。いずれにしても、それらは厳しさや悲惨さを飲み込んだうえで、純粋でウソのないものに思えた。」

 

 ぼくがスモーキーマウンテンのヴィヴィッドなイメージに駆り立てられたのは、おそらくスキッドロウで感じたのと同様の危うさや不確かさを見出し、そこに生きる人々にある種の純粋さを予感したからだろう。

 

 しかし、実際にマニラを訪れてみるとスモーキーマウンテンは既にそのほとんどがなくなっていることがわかり、ぼくは愕然とした。近くのバラックに住んでいた、日本のテレビ番組が取材したという現地の女の子を見つけて話しをしてみたが、これも何か特別のものを感じる手前でコミュニケーションを中断せざるを得ない状況になった。結果としてスモーキーマウンテンへの訪問は徒労に終わったという印象が強かった。

 

 一方でその4年前の滞在中、ぼくはスモーキーマウンテンとは別に、マニラ市内のマラーテという地区で偶然のように出会ったストリートの人々と交流を深めることになった。「女を買わないか」と声をかけてきたポン引きをからかっているうちに冗談を言い合うようになり、同じ飯を食い、やがてアスファルトに敷いた段ボールの上で共に眠るようになった。そしてそんな日々の中で忘れられない出来事もいくつか起きた。

 

 たとえばこんなことがあった。路上に暮らす人々を撮影しているときのことだった。見知らぬ酔っぱらいにからまれ、撮影をやめろとすごまれた。口論になった末、酔っぱらいが言った。「おまえはこの国の貧困を撮り、売っている。そうやっておまえは貧困の宣伝をしているんだろう」ぼくは何も言えなくなり、その場に立ち尽くした。だが困っていたぼくを見て、撮影していた被写体の人々が次々に言った。「この日本人は我々の友達だから撮ってもいいんだ」と。

 

 あるいはこんなこともあった。ある男の家に招待された時のことだった。がらんどうの独房のような狭い部屋の片隅に、乳飲み子を抱いた妻が静かに座っていた。家具はなく来月の家賃も支払いのあてがないと言っていた。男は小さなビニール袋に入ったスープを差し出し、そこに浮いた小さな2つの肉片を指して、「肉を半分に切って、それぞれ朝と昼に食べるんだ」と言った。そして「おまえは大切な友人だから」とその最後の一杯のスープをぼくにくれた。

 

 それらの体験を重ねるうちに、当然のように自分よりも貧しいと思っていた彼らを「貧しさ」という単純な言葉だけでは括れなくなっていくような気がした。そしてその「貧しさ」という言葉からはみ出た彼らの一面は、鈍いながらもきらめきを放つかけがえのなさのように映った。

 

 そんなこともあってか、ぼくはその4年前のマニラ滞在から帰国した後も、ずっと彼らのことが気になっていた。マラーテの路上で出会った人々の力強さが、自分の内側にはないものに思えたのかもしれない。しかし、ぼくはほどなくして起こった東日本大震災に大きく引き寄せられてしまい、4年間、東北沿岸部に通い続ける生活を続けるうちに、マニラのことは頭の片隅に追いやられていくような気がした。

 

 東北での日々は文字通り自分という人間のキャパシティを大きく越えた体験だった。現地の人々が語る、死や悲しみや破壊といったものが放つ重苦しさに向き合ったり、それらに向き合いきれずに逃げ出したりしているうちに、マニラの人々の貧困の中の屈託ない明るさはなぜか軽く、存在感のないものに思えてきた。そして自分の中で彼らの存在感が薄れていくにつれ、一方でひとつの疑問も立ち上がってきた。

 

 本当にそんなことがあるだろうか。東北で長いあいだ人の死や悲しみや喪失についての話しを聞くうちに、かつてマニラの路上に生きる人間に覚えたはずの感動や心の震えが味気ないものになってしまうなどということがあるのだろうか。仮にあったとしても、それは人として大切な何かを感じなくなってしまったことに限りなく近いのではないか。自分は東北に通ううちに大切な心の機能を失ってしまったのだろうか。あるいは再びあのマニラの路上に繰り出すことで4年前のみずみずしい心の動きは再び戻ってくるのだろうか。

 

 そんな疑問ともわだかまりともつかない思いをぐるぐると巡らせながら、ニノイ・アキノ国際空港へ降り立つと、ぼくは再びあの熱気に包まれた、すえた臭いの路上を再び歩き始めていた。

 

 

 

 

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