荒野の漂流者 

 

 

 荒野はまだ続いていた。アメリカ西部、アリゾナ州とユタ州の境界にまたがるモニュメントヴァレーはネイティブ・アメリカンの聖地だ。赤茶けた大地に低木が生え、巨大な岩のオブジェがそこかしこに突き出す原野には風が強く吹いていた。原初の地球を思わせる荒涼とした景色の中、人間の痕跡といえばそこを縫うように走るアスファルトだけだった。

 

 そんな文明から隔絶されたような場所で、ぼくの戦争に対する問いかけは当然のように頭の隅へ追いやられた。岩や草だけの風景は人間の愚行について考えることをどこまでも相対化し、その重苦しさをはぎ取ってしまう。結果として、ぼくは束の間の安堵のようなものを、もう一人の日本人サイクリストと一緒に味わうこととなった。

 

「早く行こう。夜が明ける前に」

 藤井さんがせかすように言った。我々は大地の向こうからやってくる朝が見たいと思っていた。夜明け前に目を覚まし、テントを開けて外に出ると、まだ暗い荒野は冷気を帯びていた。吐く息が白く、夏にもかかわらず長袖のフリースを羽織った。

 

 見晴らしのよい高台には既に何人の人々がいて、薄暗い地平線をぼんやり眺めていた。やがて奇岩のシルエットを黒く残したまま、朝の光が一面の荒野を照らし始めた。薄紫色の空が次第に淡いオレンジ色にかわり、乾いた土がほのかに熱を帯びて輝きを増す。神々しい。ネイティブアメリカンが古来よりこの地を聖地として崇めている理由がわかる気がした。

 

 藤井さんと出会ったのは、ロサンゼルスのリトルトーキョーでだった。東への出発を二日後に控えた夕方、日本人街の一角にあったモーテルに移動すると、フロントの日系人女性が言った。

「自転車でアメリカ横断?それなら同じ日本人がもう一人いるわよ」

 

 そうして紹介された巨漢の坊主頭。それが藤井さんだった。驚くべきことに、互いのアメリカ横断ルートのうち、およそ三分の二が同じ道だった。しかも出発日はたったの一日違いだった。当然といえば当然だが、つかず離れず走っていたぼくらは途中で出会ったり別れたりを繰り返していた。

 

 ある時は砂漠の真ん中に彼がいた。モハーヴェ砂漠で水を失った次の朝、峠の上の廃屋の中から彼が顔を出してきた。グランドキャニオンのキャンプ場ではテントが隣同士で偶然に再会した。そしてこのモニュメントヴァレーでも何となく再会しそうな気がしていた。

 

 太陽が昇ってしまうと、テントを片付けてナバホインディアンの資料館に足を運んだ。そこには太平洋戦争中のナバホインディアンの活躍も展示されていた。かつて米軍は、日本軍に暗号を悟られないためにナバホ族を前線に送り、難解なナバホ語を駆使して作戦の遂行に大きな役割を果たしたという。そして彼らはその功績をたたえられ、当時の政府から勲章を受けたことを今でも誇りにしているという。

「これらの展示は日本に対して何ら敵意を示すものではありません」

 そんな注意書きが展示の横に貼られていた。

 

 展示だけでなく実際のナバホインディアンとも出会った。彼らが民芸品を売るテントもいくつか歩いたのだ。そして羽飾りのみやげ物を買いがてら、立ち寄ったひとつの店の主人と仲良くなった。日本から来たのか、日本人とナバホ族は顔立ちが似ているな、と気ままな会話を楽しむことができた。

 

 だが、店を出るときふとジーンズとTシャツを着ていた彼らに違和感を覚えた。ナバホの資料館には、羽飾りや化粧をしたナバホ族の古い写真があったが、実際に目の前で話しをしたナバホ族の主人は、ヨーロッパからやってきたアメリカ白人と変わらない格好だったからだ。

 

 あるいはかつて伝統的な暮らしをしていたというネイティブアメリカンが資本主義経済にしっかりと組み込まれていたことに微かな物悲しさを感じたのかも知れない。日本のどんな美しい田舎に行ってもコンビニがあってがっかりしてしまうように、貨幣の浸透が未知であるはずの風景を平坦なものに変えてしまっている気がした。

 

 けれどもそんな物悲しさもこちらの身勝手なノスタルジーに過ぎないのかも知れない。実際のところ、彼らは自由意思で今の生活を選び取っているのかもしれない。彼らが顧客に見せる人懐っこい笑顔もそれを示している気がした。

 

「そろそろお別れかな」

 藤井さんと二人、地図を眺めていた。今後のそれぞれのルートを決めるのだ。藤井さんはぼくと違って観光地に寄るためにルートを大きく外れたり、写真を撮りながらゆっくりと旅をするタイプだった。彼はモニュメントヴァレーを出てメサ・ベルデというインディアンの遺跡に行きたいと言った。彼だけが北上すればもう再会をすることはないということは互いにわかっていた。

 

「一緒に北に向かわない?」

 冗談半分に彼が言った。北からでも南から行くのと十マイルくらいしかかわらないよ、とけしかけてくる。地図をのぞき込んでぼくは考え込んだ。ぼくの旅は人と会うことがひとつの目的であり、誰もいない荒野で回り道をすることは避けたかった。だが、彼に促されるように地図の迂回路の距離を測ると、たしかにたった十マイルほどのロスでしかなかった。結局、彼に押し切られるかたちで、ぼくも共に北上することになった。ぼくもなんだかんだ言って寂しいのかもしれない。

 

 相変わらず変化のない景色だったこともあり、我々はあることを試した。互いの自転車を一時間ほど交換して走ったのだ。

 藤井さんのマウンテンバイクは、上り坂になるととても遅く、そのかわり下り坂では異常なスピードが出た。下り坂になると藤井さんがぼくを抜かしていき、上り坂になると彼は急にスピードダウンした。

「同じ自転車でもこんなに性能が違うのか。上り坂でぼくが遅いのは、やっぱ自転車のせいだね」と藤井さんは言った。自転車じゃなくて藤井さんがヘタレなんですよ、と茶化すと彼はそうかな、と小さく笑った。

 

 昼食を食べ終わって少ししたころ、ぼくのタイヤがパンクした。アメリカの旅では毎日のようにパンクが起きた。その日、三回目のパンクだった。フリーウェイの路肩には、打ち捨てられた古タイヤや動物の死骸が散らばっていて、よけているつもりでも知らぬ間にタイヤとチューブを突き破ってくる。タイヤがパンクすれば修理に時間がかかり、目的地に着けない苛立ちが募った。うんざりだった。坂の上でパンクを修理していると、藤井さんが遅れて上ってくるなり、ぼくのパンク修理を手伝い始めた。

 

 タイヤに刺さっていた植物の棘を抜きながら、彼は「ダブルジーだ」と言った。彼によれば、その棘は路傍の植物の棘で、よくサイクリストがそれを踏んで犠牲になるのだという。パンクしているのを見て「ジーザス」、チューブがダメになってるのを見てもう一度「ジーザス」。この棘にやられたサイクリストは二回「ジーザス」と言う。だから「ダブルジー」と呼ばれているのだ。そんなことを言いながら、彼は空気ポンプを押し始めた。

 

 彼とのそうした何気ないやりとりはぼくを気楽な気持ちにさせた。一日に三回ものパンクが起きると、いつもならぼくはただ単に「まったくついていない一日だ」と肩を落としてしまう。ところが、彼にはそうしたトラブルを小さな笑いに変えてしまうような、ある種の軽やかさがあった。そして実際のところ、彼といるときに生じるそうした軽さは、ぼくの旅にとっても重要なものだと、ぼくは気づき始めていた。

 

 彼は今までにもオーストラリアやヨーロッパを自転車で旅していたことがあった。そして彼は並んで走っている時に、それらの国々の話をしてくれた。南半球の何もない砂漠を何百キロも直線に伸びるハイウェイや、ヨーロッパアルプスを自転車で越える時のつらさ。オーストラリアのゲイパレードを見に行ったあと、公園のトイレでゲイにひどく気に入られて冷や汗ものだった話しもあった。

 

 彼の話には思わず笑ってしまうものがたくさんあって、ぼくはそうした知らない国の話を隣で聞いているのが好きだった。そしてそのお返しに、ぼくは「バナナの皮」の話をした。

 グランドキャニオンの谷底にトレッキングに降りていったときのことだった。昼過ぎに谷底に着いたとき、なぜか急に激しい腹痛に襲われた。ぼくは人の来ない隙を見計らって、やむなく岩陰で用を足した。そして紙がなかったから、これまたやむなく持っていたバナナの皮でお尻を拭いたのだった。

「冷たくて気持ちよかったですよ」

 そう言うと、藤井さんは腹を抱えて、その後もことあるごとにそのネタでぼくをいじくり回した。そんな風にぼくらはお互いの旅先で出会った思い出やトラブルを共有していった。

 

 いつだったか、カリフォルニアの砂漠地帯を並んで一緒に走っていたときに、彼がふとしたように言ったことがあった。

「旅先で日本人に会うと感動を共有できるからいいよね。外人とだとビューティフルとかアメイジングしか伝えられないけど、母語でしか語り合えない感動みたいなものってあるよね」と。

 ぼくはそれを少し意外に思った。いつも冗談めいて笑いを絶やさない彼に、一抹の寂しさのような翳りが見えた気がしたからだ。それは世界各地をたった一人で走ってきた彼ならではの人恋しさなのかもしれかった。

 彼はこうも言った。

「旅先での感動を共有できるって、日本で何年も一緒にいる友達でもなかなかない。だからそれができた人とは帰国してからも、大切な関係になることが多いんだ」

 そう言われてみると、何気なく笑っている旅の中の風景が帰国後も大切なものになっていくような気がした。

 

 我々の旅は大きく違う二つの旅だった。同じリトルトーキョーのダイマルホテルをたったの一日違いで出発し、同じルート66を自転車で走る旅だったが、その違いははっきりしていた。それは言ってみれば「何かを探す旅」と「何かを達成する旅」の違いだった。

 

 そもそもぼくが旅の中に何かを探し始めたのは高校生の時の旅がきっかけだった。一九九七年の夏、ぼくは同じように自転車に乗って旅に出たことがあった。高校のサッカー部の練習を全部休んで、北海道から九州までをただ走り抜けた、あてのない旅だった。それはぼくが当時感じていた日常の息苦しさから一時的にせよ逃れるには充分なものではあったが、だが同時にそれだけのものでしかなかったとも言えた。やがてその旅の感触は時が経つにつれ、指のあいだから砂がこぼれ落ちるように徐々に薄らいでいった。

 

 そしてその高校生の時の小さな旅から数年が過ぎた頃、ぼくはその旅に欠落していたものが何であるか、少しずつ気づき始めた。それはいわばリアリティの強度ともいうべきものだった。ただ風景の中を通り過ぎてゆくのではなく、自分の中の核となる何かを風景の中に持ち込み、ぶつけること。いわば流れ去る風景にくさびを打ち込むことで、自分自身と外界のあいだに摩擦を生じさせること。その摩擦の中にこそ、豊かな現実の感触が含まれるはずで、それこそが年月を経てろ過された後もなお残る何かであるという気がしていた。

 

 もちろん十代の終わりの頃、そんな考えは明確な言葉になるはずもなかったが、それでもたしかにぼくの中に感覚としてあった。そしておそらくぼくはアメリカの旅の中にひとつの問いを持ち込むことで、自分自身のリアルを探していたのだ。

 

 一方で藤井さんの旅は「達成する旅」だと言えた。彼が自転車の旅を始めたのは二十五歳のときだった。当時ワーキングホリデーのためにオーストラリアに滞在していた彼は、現地で出会った一人の日本人女性を好きになった。そしてその気持ちを伝えようと、西海岸のパースから東海岸のシドニーまで、長距離バスを三〇〇〇キロも乗り継いで、彼女に会いに行ったのだという。

 

「見事にフラれてね。その失恋パワーで、自転車を買ってオーストラリアを横断したんだ」

 それが旅の始まりだった。

「大陸ひとつ横断できるんだから、失恋の力ってすごいよね」

 彼は自分の旅をそんなふうに冗談のように表現した。その後、彼は七年間、仕事と旅を交互に繰り返してきた。調理士として飲食店で数年働いては、また旅に出る。オーストラリア、ヨーロッパ、南米、そして北米大陸。彼の二十代の風景は包丁を研ぎ、世界を眺めることの中にあったと言えた。

 

 あるときぼくはオーストラリアの失恋のあとも自転車の旅を続けているのはどうしてなのか、と聞いてみた。

「達成感かな。何千キロも走ったあと、ゴールにたどり着く達成感。走っているときはキツいから、やらなきゃよかったって何度も思う。でも、終わったときの感動は他では味わえないよ」

 それが、彼がこれまで地球半周分もの距離を旅してきた理由だった。

 

 彼の旅を知ったとき、ぼくは何かを探している自分の旅とは大きく違うのだなと思った。彼の旅には何か一貫した確かなものが含まれている気がした。それはいつも達成感を求めてきたという言葉にあったのかもしれないし、調理士という確固とした職を得ていることと関係があったかもしれない。いずれにしても彼の旅に含まれた確かさは、羨ましくもあり、そして同時にどこか疎ましくもあった。あるいは何者でもない自分の不確かさを突きつけられるような気がしたのかもしれない。

 

 ぼくはまた彼に日本に帰ったあと、再び調理士の仕事を探すのかと尋ねてみた。

「お金を貯めて、いつか自分の店を持ちたい。でも、先のことはまだわからない。」

 彼はそのとき遠くを見るように言っていた。「自分の店を持つ」というその目標は彼にとって、どれくらいの距離にあるものなのだろうか。そんなことを考えてみたが、そもそも調理士ですらないぼくには、その距離感はどこまでもあやふやなものでしかなかった。あるいは彼が店を持ったとき、これまで繰り返してきた旅は終わるのだろうかと漠然と考えてみたりもした。

 

 その夜、藤井さんはテントの中でコーヒーを沸かしてくれた。ガスコンロの火がおぼろげに闇を照らす中、褐色の腕が手際よくコーヒーを煎れる。肌を撫でる夜風。舌に残る苦さ。旅の空の下にいる、とこんなときにふと思う。

 

 いくつかの会話が途切れたとき、不意に彼の言葉を思い出していた。達成感。その言葉は思いがけずぼくの中にひっかかっていた。このアメリカの旅で、ぼくは彼のいう達成感を得られるのだろうか。むしろ「戦争はなぜなくならないのか」という答えの出ない問いが達成感とは別の、何か重苦しいものへとぼくを押しやっているような気がしていた。

 

 翌日の昼ごろ、二人のペースに違いが出てきた。彼は上り坂が苦手でどうしても遅れてしまう。一方でぼくは先を急ぎたいと、少し焦っていた。夕方、起伏の激しい丘陵地帯で大きな上り坂にさしかかった時だった。いつものようにぼくが先に坂を登り、後ろから登ってくる彼を待っていた。やがて登りきった彼が言った。

 

「おれ、今夜の寝床探しながらゆっくり行くからさ。次の登り坂で、また遅れるだろうから、そのままおいていっていいよ」

 いつもの冗談めいた雰囲気はない。唐突に切り出された別れだとわかった。しかしだんだんと離れていくのも後味が悪い気がした。

「そう?フェイドアウトってなんかカッコ良くない?」と彼は笑った。ぼくの方にはそんな余裕はなかった。ただ一人になるのは寂しいなと思った。

「二人ともニューヨークに無事に辿り着けるといいね」

 握手をすると、彼の笑顔は少し眩しいくらいだった。

 

 辺りは暗くなり。長く延びていた影が辺りの闇と同化していった。再びぼくが前を走り、彼が後ろからついてきた。走りながらぽつりぽつりと会話があり、間に沈黙が続くと風を切る音だけがよく聞こえた。

 最後の会話は確か「このあとどこに向かうんですか」というものだった。「たぶん、さらに北の方に向かうよ」という彼の返事は五メートルくらい後ろから聞こえた。

 

 次の下り坂でかなりのスピードが出たとき、もう彼はすぐ後ろにはいないのではないかと思った。けれども振り返らなかった。藤井さんはすぐ後ろにぴたりとくっついているかも知れないし、もう視界の中に確認できないかも知れなかった。あるいは彼との別れがどれだけ進行しているのか確認するのを躊躇ったのかもしれない。

 

 ただ目の前に迫る闇の中へと走っていった。黒くぶ厚い雲が空と荒野の境界をいっしょくたに塗り、生暖かい風が強く吹いていた。脳裏には彼と過ごした時間が巡っていった。

 お互いの自転車を取り替えて走ったことや、モニュメントヴァレーのキャンプ場で米を焚いてくれ、久々に日本の味を楽しんだこと。モハーヴェ砂漠の廃屋からひょっこりと顔を出してきたときのとぼけたような表情や、リトルトーキョーの安宿の女将に紹介された時の緊張した面持ちも思い出された。「今までの自転車旅行を含めても、人生で二百キロも一緒に走ったのは君が初めてだ」と言われて何となく嬉しかったこともあった。

 

 彼と過ごした時間はたった四日でしかなかったが、いつの間にか冗談を言い合うようになっていた。

 やがて次の街が近づいて、遠い暗闇の中にオレンジ色の街灯がぽつりぽつりと見え始めた。灯りの下の名も知らぬ人々の営みが暖かく思えた。そしてそれらが少しずつ近づき、手の届く場所にあるのだと思えた頃、後ろを振り返ってみた。

 

 だがそこに彼の姿があるはずもなかった。かわりにただ漆黒の闇がのっぺりと広がっていて、今しがた走って来た道はその中へうっすらと消えていた。

 どんな風に彼の視界から消えたのかもわからず、それがどこであったのかも分からない。ただその暗闇が、彼と過ごした時間と今ある自分を大きく隔てるように横たわっていた。

「日本でまた会おう」

 彼の言葉だけが耳の奥でリフレインしていた。