top of page

 

 

 洗礼

 

 

 ロサンゼルスの空港に降り立つと、荷物用のターンテーブルから梱包していた自転車を取り、税関をパスしてロビーに出た。入国手続きを終えると、ぼくにはもう何の義務もなくなった。それはアメリカの大地を六十日間旅する自由を手に入れたということだった。

 

 ロビーのベンチに座って、あたりを見回した。外のバスターミナルからは次々と発車するバス。同じ便に乗っていた乗客も次々とはけてゆく。日本での長い生活を終えて再び祖国の地を踏む人や、これから始まるアメリカでの長い生活に思いを馳せる人。誰もがみな自分の行くべき場所を知っている。

 

 ぼくだけが彼らから取り残されてしまったようだった。知り合いもいなければ、行く場所も決まっていない。そんなわかりきった事実が急に目の前に突きつけられたようだった。胸が高鳴って、少し動揺している。モーテルのようなものを見つけて、今後何をすべきかをゆっくり考えたかった。その場所さえも決まっていなかったのだ。

 

 公衆電話のブースで長話しをする背の高い黒人や、カートに山のように荷物を積んだ白人のおばあさんが目に入る。が、なぜかそうした人波の中に躍り出て自分の旅を始めることがためらわれた。

 

「とにかく自転車を組み立てなくては」

 

 自分に言い聞かせるようにベンチをあとにした。外に出ると真夏の西海岸のむっとするような熱気がぼくをつつんだ。目の前には無機質で巨大なコンクリートビルと、せわしく動く車の群れ。

 

 ロビーを出たところで自転車の梱包を解き始めた。タイヤに空気を入れ、フレームに取り付け、サドル、ブレーキと順に組み立てる。不安を拭うように、それらの作業を手際よく進めた。

 

 しかし、組み上がった自転車に乗ってみると、なぜかうまく動かない。ペダルを踏み込むと強い抵抗がある。別のギアで走ればなんとかなるのだが、それもいつまでもつかわからない。専門のバイクショップを探さなければならなくなってしまった。幸先の悪いスタートにひっかかりを拭えないまま、ぼくは十キロほど離れた市街地へと向かった。

 

「いったいその自転車でどこまで行くつもり?」

 

 やっと見つけたバイクショップで自転車の修理を待つあいだ店内をぶらついていると、一人の白人青年が声をかけてきた。Tシャツに短パン。カールしたブロンドの長髪がキャップの下から覗いている。ラフな格好だが、清潔感のある男。彼も自分の自転車を直しに来たのだという。ぼくが日本から来てアメリカを横断しようとしていることを話すと、彼はすぐに話に乗ってきた。

 

「アメリカは初めて走るのか?」

 

 ぼくはさっきこの国についたばかりで、なにもわからないのだと話した。すると彼はアメリカの走り方についていろいろと教えてくれた。道路事情の悪さや、どのパンクキットが使いやすいとか、そんな細かいことだったけれど、この国にやってきたばかりのぼくには貴重な情報だった。ちょっとした仲間ができたようで嬉しい。彼も自転車で旅をしているのだろうか。聞いてみた。

 

「まあそんな感じだ。ロスのあたりが好きでよく走っているよ」

 

 そのわりに、彼はぼくのように自転車用の大きな荷物を持っていなかった。ほとんど手ぶらに近い。どこかの宿にでも預けてきたのだろうか。アメリカのどの辺りに住んでいるのかと聞いてみた。

 

「家族はみんなシカゴに住んでいるよ」

 

 その言い方はわりと長い間旅を続けているのだという風だった。もしかしたらこの街のことをよく知っているかもしれない。彼が泊まっている場所も聞いてみた。

 

「街の郊外の小さな森みたいなところを少し入ると、寝泊まりできる場所がある。今はそこに泊まっているよ。」

 

 郊外のキャンプ場のような施設だろうか。大きなロサンゼルスの街でも、郊外に少し行くとキャンプ場があるのか。さすがはアウトドアライフの国だけあるな、と少し安心した。

 

 ぼくは自転車の事情だけでなく、アメリカでのキャンプ場やモーテルなどの宿泊施設の事情すら調べていなかった。

 

 アメリカにやってきた理由のひとつに、同時多発テロ以降、この国の人々が戦争のことをいったいどう思っているのか、人々に聞いてみたいということがあった。図書館でアメリカの社会背景を調べたり、人々への質問の内容を考えたりしているうちに、いつの間にか出発になってしまった。だから旅の情報は現地で聞くしかないと考えていたのだ。

 

 修理が終わって店を出ることになったとき、ぼくは思い切って彼に今夜泊まる場所が決まってないのでどこかいい場所はないかと尋ねた。

 少し考えてから彼は言った。

 

「そうか、オレの泊まっているところで良かったら案内するよ。」

 

 少しほっとした。これで今夜の宿はどうにかなりそうだ。初日がキャンプ場だっていい。彼といれば安全だろうし、アメリカでの自転車の話を聞ければこれからの旅をうまくイメージできるかもしれない。そう思って、空港を降り立った時のゆく当てもない感じが解きほぐれていった。

 

 バイクショップを出ると既に太陽が傾きかけていた。彼は夕方の気持ちいい時間だから少し海の方を走ってみようと言い出した。悪くないな、と思った。この辺りの街の様子を頭に入れておきたかったからだ。そもそもぼくは必死でバイクショップを探していたせいで、ロスの街がどのくらいの規模で、自分がその中のどの位置にいるのかわからないでいた。

 

 それに夕暮れのロスのビーチをサイクリングだなんて、とてもオシャレじゃないか。ギアも直ったし、初日としては快調だ、とぼくは思った。

 

「この辺りには、サンタモニカとかベニスとか有名なビーチがあるよ。わかるか?」

 

 信号待ちをしている時に彼が聞いてきた。

 

「うん。有名な観光地だよね」

 

 ぼくが言うと、彼は満足そうな表情をした。この街が好きなのだとわかった。 

 信号が青に変わると、彼は前輪を持ち上げて後輪だけで走り始めた。アクロバティックなパフォーマンスだ。それに応えるように、交差点の車の一台が親しみを込めてクラクションを鳴らす。

 

 アメリカ人らしいオープンさだ。彼は口笛を吹きながら走り、すれ違う女の子に声をかける陽気な男でもあった。そして太平洋を見渡すことのできる海沿いの道路まで来ると言った。   

「この辺りは、今の季節、北西の風が強く吹く。海流の影響だと思うけどね。だから、自転車でロスから北へ行こうとすると向かい風がきついんだ。帰りはとても楽なんだけどね」

 

 そんな言葉から、なんとなく頼もしさを感じた。ぼくはアメリカに到着したばかりで疲れていたのだが、彼と海沿いを走っているうちにそんなことも忘れてしまった。

 

 やがて夕方になり、長くのびた影が闇にとけ込むと、街のそこかしこに明かりが灯り始めた。ぼくらはファーストフードで夕食をとることにした。ぼくはラージサイズのポテトのついたセットで、彼はシーザーサラダひとつだけだった。

 

「なあ、ロッキーマウンテンを自転車で越えたら、お前はヒーローだな」

 

 レタスをほおばりながら、彼が冗談っぽく言う。しかしぼくはこれからどんな旅になるのか、全く見当もつかないでいた。ただ、旅の途中で一つだけやりたいことがあると言った。それはアメリカがやっている戦争について、この国の人々はどう思っているのか聞いてみたいということだ。戦争とは9、11と呼ばれる同時多発テロ以降、アメリカが始めたアフガニスタンやイラクへの侵攻のことだった。

 

 

 それはすごいな、と彼は言った。けれど彼の表情はあまり興味が持てないという風に映った。ぼくが言った「人々」の中には当然目の前の彼も含まれていたのだが、彼にはその自覚がないようだった。

「イラク戦争のこと、どう思う?」

 彼が戸惑ったように見えた。

「必要なことだと思う?」

「戦争はよくないことだと思うな」

「でも必要だっていう人もいるよ」

「まあな」

「イラクの人のためになっていると思う?」

「よくわからないな」

「戦争が始まった時、どんな風に思った?」

「ブッシュたちが勝手に始めたんだろう」

 

 投げやりな返事が返ってくる。ぼくはこの国で出会った人に聞いてみたいことはいくらでもあった。自分の国が戦争をしていることをどう思っているか。それらの戦争と市民はどう関わっているのか。戦争の正しさとは何なのか。実際のところ、自分でもどうしてこのような問いをぶつけてみたいのか、不確かなままだったが、ぼくはそうしたひっかかりを棚上げにしたまま、いささか奇妙な問いかけを始めることになった。

 

 一方目の前の彼はといえば、早めに切り上げてくれと言わんばかりの態度だった。ぼくはなんとなく空振りしているような気がして、それ以上その話題をやめてしまった。

 

 彼のいう「森」に着くと、そこはぼくが想像していたものとはだいぶ違っていた。ぼくはドイツの黒い森のようななうっそうとした深い森を想像していた。その奥に小さい湖があり、岸辺のキャンプ場でビールを囲んで人々がわいわいとやっている。そんなイメージだった。

 

 けれどもそこはハイウェイのスクランブルの脇にある、背丈が三十センチくらいの小さな植え込みでしかなかった。ぼくは少しおかしいなと思いながらも、彼のあとについて自転車を押していった。こんもりとした植え込みの中を十メートルくらい入ると、一角に草のない土だけの小さなスペースがあった。

 

「ここだよ」

 えっ?

 思わず声に出た。

「雨は降らないから安心しなよ。ハイウェイの車がちょっとうるさいけど、すぐに慣れる。まだ少し早いけど、もう寝ようか」

 

 男はいつもそうしているという風に、草がはげた部分に平然と寝転がり始めた。そばには古びた雑誌や、埃にまみれた小さな人形がいくつかあった。ずっとそこに置いてあるらしい。食べかけの菓子袋もあった。彼ははここで人形たちと暮らしているのだろうか?

 

 胸の鼓動が急に高鳴ってくる。今まで街中をサイクリングして共に夕食を食べ、少なからず頼りにしていた長髪の青年。不審な人物に見えていた。考えてみれば名前さえ知らない。本当に旅行者なのか。色々なことがわからなくなってきた。しかしそれを聞くとこの半日で築いた信頼が壊れる気がしてこわかった。

 

「夜中になるとちょっと寒そうだな…」

 ぼくは平静を装った。

「いや、夏だから夜も暖かい。あまりそっちに行くと夜中にスプリンクラーが回りだすから気をつけろよ」

 すぐそばの地面の落ち葉を手で払いながら彼は続けた。

「どうした?こっちに来いよ。この辺がいいんじゃないか?」

 完全に一緒に寝る気だった。こちらが望んだのだからあたりまえなのだが。少し迷った末、ぼくは言葉を選んで言った。

「もっとキャンプ場みたいなのだと思ってたんだ…。その、ぼくはさっきこの国に来たばかりで、いきなりここで寝るのはちょっと…」

「えっ?」

 

 彼が過剰に反応したように見えた。逃げ出したい。

「…来たばっかりで疲れてるからさ。違う場所さがそうかな…」

 しばらく沈黙があった。重苦しい。ぼくは男の目をろくに見もしないで自転車にまたがった。

「じゃあね…」

 振り返らずに走り始めた。しかしそのとき背後に大きな声が響いた。振り向くと男がなにか必死の形相で近づいてくる。訴えるような表情。鋭い声。しかしまくしたてるようで、内容が聞き取れない。ぼくは怖くなり強くペダルを踏み込んだ。

 けれどもそのとき、彼の叫び声の中に”lonely”という言葉が聞こえた気がした。

「寂しい」

 寂しいと言ったのか。寂しいから一緒に寝てくれと叫んでいるのか。できない。それは無理だ。自分に言い聞かせた。いったい彼は何者なのか。こんなところで何をしているのか。ペダルをもう一度強く踏み込むと、かすかに胸が痛んだ。

 

 夜の街をあてもなく走った。男の後ろについて来たせいで、どこをどう来たのかわからなかった。海沿いに行けば宿があるにちがいない。それだけだった。

 

 考えてみればアメリカへやってきて初めての夜だった。深い闇。ひっそりとした街。オレンジ色の街灯が頼りなげにぼうっと浮かび上がる。

「都会の夜は危険だ。強盗がうろついている」

 

 誰ともなく聞かされたそんな言葉が急に真実味を帯びてきた。人気のない住宅街を抜け、誰もいない赤信号をそのまま渡り、繁華街に近づいた。

 

 そのとき背後に自転車が走り寄る気配がした。ぼくはさっきの男かと思って、とっさに振り向いた。しかし違った。かわりに大きな黒人が白い目をギョロつかせてこっちを睨んでいる。ぼくは別の危険を感じた。黒人はぼくのすぐ後ろをぴたりとつけてくる。そして低い声でぼくに向かって何か叫んだ。

 やばい。全身がこわばった。黒人はもう一度叫んだ。

「オン・ユア・レフト」

 

 そしてそのままぼくの左側を追い越し、走り去っていった。左側を通るぞという合図だった。ぼくはほっとしたが、もう夜そのものが怖くなっていた。とにかく早く安全な場所へ、それしか頭になかった。

 

 幾筋かの通りを抜けたところにINNと書かれた看板を見つけた。モーテルだった。ぼくは迷わずドアを叩いた。すると男の主人が出て来て「部屋はあるけど自転車は中に入れられない」と言った。どうして入れられないんだ、とぼくはほとんど食ってかかっていた。

「部屋には自転車を入れるスペースはないんだ」

 

 主人が残念そうな顔を作る。ぼくは増してくる不快感を押し殺しながら、ドアの前のガードレールを指して言った。

「じゃあ、どこに置けばいい?ここに自転車を鍵で固定しておけばいいかな?」

「わからない。この辺は、昼は観光地だけど、夜はけっこう変なのがうろついているからな」

 イヤな予感がした。けれどこれ以上走り回って別の宿をさがす気にもなれなかった。何より早く安全な場所へ行きたかった。

 

「きっと大丈夫だ。この鍵は日本のバイクショップで一番丈夫なヤツだったんだ」

 自分自身に言い聞かせ、ぼくはこの宿に決めた。自転車につけていた重い荷物をすべて取り外し、祈るように鍵をかけた。部屋に入ってドアに施錠すると、電気を消してベッドに倒れ込んだ。

 ため息が深い闇に溶けていった。暗い天井を見つめながら、朝からのできごとを思い出した。不安とともに空港に降り立ち、自転車のトラブルに遭い、頼れると思っていた人間から逃げ出し、夜の街を彷徨うように走って来た。

 

 耳の奥には、去り際にあの男が発した叫び声のようなものがまだ鮮明に残っていた。ぼくはあらためて独りなんだと思った。これから始まる旅のことを漠然と考えてみたが、磨りガラスの向こう側を覗くように先のことが見えなくなっていた。そしてそれらから逃れるように眠りについた。

 

 翌朝目が覚めると、さらに厳しい現実があった。ベッドから起き上がると、何気なく窓の下の通りを眺めた。良い朝だった。風に乗ってほのかな潮の香りが運ばれ、いま泊まっているところが海のすぐ近くだとわかった。繁華街の目抜き通りは既に観光客でごった返していた。そして、ぼくは昨晩自転車を止めておいた、窓のすぐ下のガードレールの方に目をやった。

 

 自転車が……ない。ぼくの自転車がなくなっている。

 

 強烈な胸の高鳴り。ぼくはサンダルをつっかけると、部屋のドアを開け、階下へ走った。

 何かの間違いだろう。そんなわけがない。きっと親切な誰かがもっと安全な場所に移動してくれたのに違いない。いや、それなら頑丈な鍵をむりやり壊されたことになる。それはありえない。きっと見間違いだ。大丈夫だ、ただの早とちりに決まってる。

 

 階段を駆け降りるあいだ、そんな考えがぐるぐると頭の中を巡っていった。通りに出ると、長く連なるガードレールのすべてが見渡せた。それらは目の前の通りに沿って続き、やがて一番奥の曲がり角で消えていた。

 

 そしてそのどこを見ても自転車はなかった。昨晩ぼくが確かに鍵をかけた場所も見つけたが、なんの痕跡もなかった。鍵の破片が残っているとか、自転車の部品が落ちているとか、そんなものはひとつもなかった。ただ、かわりばえしないガードレールだけがアスファルトに沿って静かに立っていた。

 

 なす術もなかった。描いていた旅はまだ始まってもいない。それなのに、何かがこの旅からぼくを引き剥がそうとしているような気がした。1マイルも東へ進まずに、この国はぼくを拒もうとしているのか。頭の中と現実とのずれにめまいがした。

 賑わいを見せる海辺の通りで、ただぼくの鼓動だけが高鳴っていた。

 

 

 

bottom of page