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回覧板のようなコミュニティラジオ

 東日本大震災をきっかけに被災地域では臨時災害放送局が次々に設置され、3年が経つ今、そのいくつかはコミュニティエフエムへの切り替えを行ないながら地域に根ざした放送局作りに奮闘している。震災後の地域放送はどうなっていくのか。

 今回は宮城県名取市の「なとらじ」でパーソナリティを務める相澤さんに、立ち上げ当初からの経緯を聞いた。

 震災からひと月ほどが経った混乱期のさなか、「なとらじ」は市の要請によって始まった。当初は宮城県からのお知らせを広報的に流していたという。法務局からのお知らせ、義援金の受け取り、仮設住宅の申し込み。あるいはボランティアによる慰労のための音楽演奏を録音して伝えたり、炊き出しの現場を取材して放送したり、避難所にいる人々に向けてラジオ体操を呼びかけたりした。徐々に昔話をかけたり音楽の放送も始まった。

 このころリスナーからのリクエストに閖上小学校、中学校の校歌が聞きたい、というものがあり、それに応えて実際にレコードを探し放送をしたという。大きな津波の被害に遭った閖上地区には小学校も中学校もひとつしかなく、街の誰もが同じ校歌を歌って育った街だ。地域の人々の故郷を取り戻したいという気持ちに寄り添った「なとらじ」ならではの取り組みだといえる。

 一方で戸惑いもあった。放送開始したてのころに市役所の周辺の桜の開花情報を放送し続けていると、リスナーから手紙が届いた。津波で家族を亡くした人からだった。「わたしにとっては桜の話しは何も嬉しくない。そういう人の気持ちがわかりますか?」

 人々の癒しになれば、と考えていただけにショックだった。それ以来言葉の重みを感じるようになったという。放送というものは誰かを傷つける可能性を十分に含んでいることを示す例だろう。

 こうして震災の被災者に向けて発せられていた放送内容も、3年のときを経て沿岸部だけでなく名取市全体の人々に向けて届けられるようになった。それには災害時の臨時放送からコミュニティエフエムへの移行という大きな課題があるからだ。 

 つまり大きな災害が起きたとき、まず80.1にチャンネルを合わせてもらえなければ地域固有の災害情報を送ることができない。そのためには日頃から市民に愛されている放送局である必要があるのだ。「ラジオを聞くことで津波にのまれないで済むのなら、そのはじめの一歩を手伝えたい」と相澤さんは語る。

 3年が経ち放送の中でも復興という言葉を織り交ぜることも少なくなってきた。震災復興を願って作られた港朝市やさいかい市場からの放送もあるが、説明をしなくても地元の人々ならその意味をわかっているからだ。ことさら力まない感じは放送の言葉遣いにも表れている。「なまっていてもいい。あれ、あの人が出ている、という気軽なラジオにしたい。」

 理想は市民がそれぞれに発信し、キャッチボールが行なわれることだ。「市民が出ることによって聞いてみようと思ってみたり、今度自分も出てみようと思ったり。回覧板を回すよりも『なとらじ」に行って流した方がはやいと言われたい」。放送を身近に感じるほど、災害時にも市民が耳を傾けることになる。そのときこそ放送が命を救うときなのだ。


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