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3年目の災害エフエム

 私が初めて南相馬市を訪れたのは行方不明者の捜索ボランティア活動が始まった2013年春のことだった。津波と原発の両方の被害を受けた現地では復興が手つかずで遅れているというのが当時の実感だった。その南相馬でラジオはどんな機能を果たしたのか「南相馬ひばりエフエム」の今野聡チーフに話を聞いた。

 震災からひと月ほど後の4月16日、市の要請に地元商店街が機材提供をするかたちで開局し、翌5月からは放射線量の測定結果を放送した。全世帯に線量計が配られた後も、情報弱者などのために毎日放送を続け、現在では市内129カ所で地上1センチと1メートルの数値を週に一度更新している。

 放射線に関する市民の不安には「わたし坪倉が答えます」という番組で対応している。東京大学医科学研究所の坪倉正治氏が、検査データをもとに内部被曝について詳しく解説する番組で、氏は「流しそうめんをやりたいのだが、竹を切ってそこにそうめんを流して大丈夫か」「警戒区域内に味噌を忘れてきた。ビニールに包まれているが大丈夫か」など、放射線に関する日々の暮らしの疑問にもひとつひとつ答えている。放射線に関する知識に加え、南相馬の日常が垣間見える番組作りだ。

 2011年9月以降、徐々に市民の出演機会が増え、「私と震災を語る」という不定期のコーナーも設けたものの、時が経つにつれて聞く方も話す方も震災の話は「つらいな」という空気になったという。

 2013年になると震災を全面に押し出す必要もないという雰囲気になり、市内の若者の声を拾う番組では合コンの話など、何気ない日常も語られ始めた。

 今野さんによれば、「被災地と呼ばれたくない」という気持ちと「いや、まだ被災地だ」という気持ちが市民のあいだにあり、人々はそれらを無意識に使い分けているのだという。  

 これは南相馬に限った話しではない。被災した事実はずっとついて回るが、メディアにそれを誇張されることに疲れたという地元の声は様々な場所で聞く。作り手はこうした気持ちの揺れを被災地内部から感じ取り、非日常が日常化した市民目線の番組作りに活かしていると言える。

 一方で「震災」や「震災前の南相馬の歴史」といった硬派な切り口は「柳美里のふたりとひとり」という番組に集約されつつある。作家柳美里が市内の様々な立場の人に震災当日や街の歴史、これからのことなどを聞き続けているのだ。

 気になったのは、遅れていると言われた行方不明者捜索については、震災一周年の節目でのレポートに留まったことだ。建設会社の社長と現場に入り震災直後の沿岸部の状況をレポートしたというが、いまなお市内だけで100名以上の行方不明者がいる状況に光が当たらないものか。

 震災から3年以上が経過した。今野さんは、神戸のエフエムわいわいのスタッフから「これから災害エフエムが必要になってくる」と言われたそうだ。時間とともに複雑な市民感情のあいだに生じる温度差を、ラジオが橋渡しする。阪神淡路大震災で先輩放送局の教訓だ。「一人ひとり異なる思いを伝えることで、復興へ向けて、臨時の放送を越えた地域との関わりができるのではないか」と今野さんはいう。避難区域の再編が進み、人の流れも変わりつつあるいま、ラジオの力が試されている。


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